大神異見聞録・本編

潤恵ノ世の章「大神桜花祭」

  • 「慈母、ウシワカ殿と一緒にナカツクニに行かれてはいかがですか?」
    「ナカツクニに、ですか?」
    そう提案したのて蘇神だった。
    ナカツクニからこのタカマガハラに帰還して早数年。
    ナカツクニはもっと時間が経っていることだろう。
    「タカマガハラも順調に復興してきていますし、その影響を受けてナカツクニも平穏を取り戻しているはずです。
    …以前話していらっしゃいましたよね。ロクに挨拶もできずに帰ってきてしまったと」
    「…はい」
    伏せ目がちに俯くアマテラス。
    己の、もう一つの神格が駆け抜けたナカツクニ。
    自分自身ではないけれど、自分の記憶として残る暖かく、優しい人々の笑顔。
    誰にも「ありがとう」も「さよなら」も、何一つ伝えていない。
    否、自分の言葉で伝えたい。
    「ありがとう」と。
    「楽しかった」と。
    そして「ごめんなさい」と。
    その夜、アマテラスはいつものように自室にウシワカを招いてその肩にもたれかかっていた。
    「ナカツクニか…そうだね、一度様子を見に行くのもいいかもしれないね」
    「ミーも西安京がどうなってるか気になるし」とウシワカは少し寂しげに笑う。
    「…色んな人に会えたわ」
    「うん」
    「そして…色んな人を犠牲にしてしまった…」
    「…うん…」
    しばらく沈黙する二人。
    アマテラスは甘えるようにウシワカの首元に顔を埋めた。
    「…皆、私のことを覚えていてくれるかしら…?」
    「忘れるわけないよ。ゴムマリくんが言ってただろう?『一度くっついたらそう簡単には離れない』って。
    まったく…ストーカーなのはどっちだよ」
    ウシワカの言葉にアマテラスはくすくすと優雅に笑う。
    愛しい女神の頭を優しく撫で、軽く口付けをする。
    「…行こうか。ミーたちの…君のナカツクニへ」
    「ええ。皆に、会いに行きましょう。全ての始まりの、あの極北の地へ…」

    翌日、アマテラスとウシワカはカムイの地へと降り立った。
    春だというのに未だ雪の多い地に、ウシワカは思わず身震いをする。
    「ふぅ…いつ来てもコールドな場所だよ…燃神くんの護符がなければミーたちがアイスになっちゃうよ」
    「うふふ…。…ここが、ヤマトが堕ちた場所なのね…」
    アマテラスはウシワカと並び、祭壇の上からかつて鉄の箱舟が鎮座していた湖を眺めた。
    「ラヨチ湖…こんなにビューティフルな湖だったんだね…」
    太陽の光を受け、水面がキラキラと輝いている。
    静まったその湖面はまるで鏡のようにも見えた。
    二人はしばらくその湖面をただ、ただ、眺めていた。
    タカマガハラがオロチの襲撃を受け、天神族と神々を乗せて脱出したはずの箱舟ヤマト。
    しかしその実はすでに妖怪たちの巣窟と化しており、天神族は全滅。
    このラヨチ湖に墜落したヤマトは『世のすべての闇を集めている魔の船』として怖れられていた。
    感慨に耽る二人の目の前を、はらはらと桃色の花びらが舞い降りてきた。
    「…サクヤの花びらだわ…!」
    「うん。行ってみようか」
    ウシワカとアマテラスは一歩一歩、雪の道を踏みしめながら歩いた。
    ウシワカが先に歩き、アマテラスの手を引く。

    ほら、そこは滑りやすくなってるからゆっくりと。そう、そうだよ。
    慌てると転んじゃうよ!ユーは時々おっちょこちょいなんだから。

    笑いながら、二人は歩く。固く、互いの手を握りしめて。
    「綺麗…サクヤのご神木が花を咲かせているわ」
    ナカツクニ全土に巡らされた、タカマガハラの神樹・イワナガの苗から生まれたナツカクニのご神木の木精・コノハナサクヤ姫の
    苗木は、たとえ雪に閉ざされたカムイの地といえど、その花を枯らせることはない。
    箱舟ヤマトに封じられていたアマテラスの弟・スサノヲが復活してから、ナカツクニを満たす『三貴子の理』とその神力は磐石。
    揺るぎない『原初の愛』で満たされ、人々は神々の恩恵を受け繁栄し続ける。
    「蘇神くんの言ったとおりだね…タカマガハラが復興すれば、ナカツクニにも影響が及ぶって…」
    「何者だ、お前たち」
    ウシワカの声を遮るようにぶっきらぼうに投げかけられた言葉。
    何事かと振り向くと、青い熊の面に同じく青いオイナ族の服を纏った青年が仁王立ちしていた。
    「おや、カムイのヒーロー・オキクルミじゃないか」
    「そういう貴様は…いつぞやの…」
    「ひどいなぁ、名前を覚えてくれなかったのかい?」
    「貴様が名乗らなかったんだろうが」
    オキクルミと呼ばれた青年は相手にするのも疲れるといった仕草をしてみせるが、ふとウシワカの隣の佳人に目を留める。
    「お前は…」
    面越しに目が合い、アマテラスは思わずドキリとする。
    そんなアマテラスの心情を知ってか知らずか、オキクルミはゆっくりと面を外した。
    「……アマテラス、なのか…?」
    その言葉に、アマテラスの目に涙が浮かんだ。
    そして次の瞬間には駆け出し、オキクルミに向かって突進していた。
    「ぐあっ」
    とっさに受身がとれず、アマテラスに雪の上に押し倒され、オキクルミが情けない声を上げる。
    「は…離れろ、アマテラス!」
    アマテラスの豊かな胸の双丘がオキクルミの胸の上で柔らかくつぶれている。
    その感触に戸惑いながら、無理矢理アマテラスを引き剥がす。
    有無を言わさず押し倒すアマテラスもだが、それ以上にケムラムかと思う程の殺気を放っている金髪の男の存在に、
    何やら危機感を感じてオキクルミは無理矢理アマテラスを引っぺがした。
    「へぇ〜!それじゃあ二人でナカツクニを旅してるのかい?すごいじゃないかい!」
    栗色の瞳をクリクリさせながら嬉しそうにそうまくしたてるのは、オキクルミと結ばれ、二児の母親になったカイポクだ。
    彼女の腕にはようやく首が据わり始めたぐらいの男児チュプと、カイポクとオキクルミの間から興味津々といった表情で
    こちらを見つめてくる女の子ヌイに、アマテラスは優しく微笑んでみせる。
    アマテラスの笑顔にヌイはパァッと表情を綻ばせ、満足したのか、嬉しそうに父親の影に隠れる。
    「しかし…あのアマテラスが、女だったとは、な…」
    少しばつが悪そうに唸るオキクルミ。
    獣の姿で共闘したときは気づかなかった。
    というよりは男だと思い込んでいた。
    「狼の姿は仮の姿だったんだろ?人々の信仰心が薄まったから本来な姿が保てなかった…それをイッスンが描いた
    アマテラスの絵が皆を繋いで大きな祈りへ変えた…皆の信仰心が篤いから今もその…本来の姿でいられるんだろ?」
    カイポクが少し恥ずかしそうにアマテラスを見つめる。
    アマテラスの美貌は男だけではない。
    カイポクのような女性ですら思わず溜め息を漏らしてしまう、本物の美しさだ。
    アマテラスはカイポクの問いに笑顔で応える。
    「…ありがとう、イッスンの絵に応えてくれて。ありがとう、私達を信じてくれて」
    気のせいだと分かっていたが、アマテラスが微笑むと、そこにだけ春が訪れ、大輪の桜が花開いたような錯覚に陥る。
    この美しい女神があまねくナカツクニを照らし、すべての生命に平等に太陽の恵みを与えてくれるのだ…!
    そう信じるに価するほどの極上の微笑みだ。
    カイポクはつかの間に見た満開のコノハナに上機嫌になった。
    「さぁさ、いっぱい食べておくれよ!今日は大神さまとその想い人のためにたくさん作ったんだ!カイポク特製のカムイ鍋、
    たぁんと味わっておくれよ!」
    オキクルミとカイポクの家は外見から想像できないほど広く、アマテラスとウシワカは一晩世話になることにした。
    夜が明けて太陽が昇り、アマテラスとウシワカは次の目的地、西安京を目指す。
    「これを持って行け。カムイの保存食と甘酒だ。この保存食で冬が越せるし、特製の水筒だからそう簡単には冷めん」
    「サンキュー、オイナのヒーロー。マラソンガールと末永くお幸せに」
    「…お前たちもな」
    ウシワカの言葉に、照れを隠せないオキクルミ。
    スッと差し出された手に一瞬驚いたウシワカだったが、ニッコリ微笑むと、その手を熱く握り返した。
    「…気をつけるんだよ、アマテラス。まぁ、アンタの駿足なら心配はいらないか…
    なんてったってこのあたしとの真剣勝負に勝ったんだからさ!」
    カイポクの言葉に「うふふ」と優雅に微笑むアマテラス。
    その着物の裾を、小さな手が軽く引っ張る。
    「これ、ヌイ!」
    母の制止の声もきかず、ヌイはジイッとアマテラスを見つめる。
    「なぁに?」と首を傾げるアマテラスに、ヌイはその大きな瞳を少しだけ曇らせる。
    「おーかみさまのおねぇちゃん…また、あそびにきてくれる?」
    たどたどしいその言葉に、アマテラスは胸がいっぱいになった。
    ヌイから僅かながら信仰心が流れこんでけるのを感じる。
    それ以上に、嬉しさで頬が紅潮し、涙が溢れそうになった。
    「…また、必ず来るわ。今度はこーんな雪だるまを作って遊びましょ」
    両手を大きく広げ、ヌイに微笑みかける。
    ヌイは目をキラキラさせて「うん!ぜったいよ、やくそく!」と、小指を差し出してきた。
    その小さな小指に、アマテラスは自分の小指を絡める。
    「ゆーびきーりげーんまん、ウーソつーいたらはーりせんぼんのーます!!」
    小さな再開の約束を交わし、アマテラスとウシワカはカムイを後にした。
    秘密のトンネルをくぐり抜け、アマテラスとウシワカは一気に神州平原へと至る。
    そこでウシワカはふと不思議に思う。
    「…ねぇ、アマテラスくん」
    「はい?」
    ふわふわと紫銀の髪を揺らしながら鼻歌まじりに進む目の前の佳人が振り返る。
    「なんでさ、幽神くんの…『霧飛』だっけ?物実の鏡を使って瞬間移動できる筆しらべ。何で使わないんだい?」
    不思議そうなウシワカに、一瞬キョトンとしたアマテラスだが、ふわりと優しく微笑む。
    「だって…前だってこの脚でナカツクニ中を駆け回ったんですよ?今度はゆっくり、のんびりと歩いて回りたいじゃないですか」
    「ね?」と無邪気に笑う女神に、「オーケィ、お供いたしましょう、どこまでも」と演技がかった仕種でアマテラスの手を取る。
    笑うアマテラスだが、握られた手にぐっと力が込められ驚く。
    「あと…その…再会を喜ぶのはいいんだけどさ…あんまりミー以外の男性には抱き着かないで欲しい、かな…」
    視線をそらし、やや不機嫌そうなウシワカに、アマテラスはポカンと口を開けるが、くすっと小さく笑うと、ポフッとウシワカに抱き着く。
    「ウシワカは、ヤキモチ焼きさんですね」
    「…200年待ったんだ。一人占めぐらいしたいよ…」
    「…はい」
    優しくウシワカの頭をナデナデしたあと、軽く口づけする。
    それで少しは安心したのか、ウシワカは申し訳なさそうに笑い、アマテラスの手を取り歩みはじめる。
    やがて暗く冷たい坑道を抜けると、優しい花風が二人を迎えた。
    神州平原ーナカツクニ一美しいと謳われる広大で肥沃な土地だ。
    枯れることない風花がどこまでも蒼穹に舞う。
    ほのかに香る花の香りが懐かしい。
    「…いつ見てもビューティフルだね…これからどうする?」
    「西安京へ向かいます」
    アマテラスの言葉にウシワカは驚かない。
    彼女自身も切望していたことだ。
    「…そうかい。じゃあ二人でランデブーといこうか!」
    途中のアガタの森でカリウドと息子のコカリとも再会し、釣り比べをして一晩を過ごした。
    高宮原のクサナギ村では、宮司を務めるフセ姫と八犬士とも再会したと思うと、決闘を申し込まれ大乱闘に。
    アマテラスとウシワカの息の合った連携プレイに、八犬士たちは素直に負けを認め、さらなる精進を約束した。
    スズメの里では、竹取翁の振る舞う竹筒料理に舌を打つ。
    胃袋を満たしてご満悦なアマテラスが、ウシワカと一緒に温泉に入りたいと言い出したが、スズメ組一同が断固として譲らなかった。
    そして高宮原と都を結ぶ大橋を越え、アマテラスとウシワカは両島原南へとたどり着いた。
    潮の香が優しく鼻孔をくすぐる。
    キラキラと波打つ海を嬉しそう眺めるアマテラスとは対照的に、ウシワカはある場所を凝視していた。
    餡刻寺ーかつては尼僧ツヅラオが着任していた寺だ。
    彼女は病人に無償で治療と薬草を施し、寺に捨てられた子供の里親を探し、腹を空かせた動物たちに餌を与えた。
    生ある者に平等で、弱い者を放っておけないタチであり、また有能な退魔師でもあった。
    だがそれ故に妖魔王に目を付けられ、隙を付かれて命を落とした。
    その遺体は妖魔王によって井戸に打ち捨てられていたが、生前ツヅラオを慕っていた者たちによって丁重に葬られ、
    餡刻寺の一角に墓が建てられていた。
    長い石段を上り詰め、ようやく餡刻寺が全貌を現す。
    その横にひっそりと、ツヅラオの墓があった。
    毎日人足が絶えないのであろう。
    真新しい花と数々供え物が彼女の墓を彩っていた。
    「…遅くなっちゃってごめん、ミーだよ、シスター・ツヅラオ」
    白百合を一輪手向け、ウシワカはツヅラオの墓に手を合わせる。
    「…ユーとヒミコには散々遊ばれたっけな…ミーの髪のこと、鬘だの染めてるだの、信じてくれなかったよね」
    はははっと小さく笑い、昨日のことのように思い出す。
    あれはまだ、幼いヒミコが即位したての頃だった。

    「のう、ウシワカ。その鬘は何処で売っておるのじゃ?妾も被ってみたいでおじゃる」
    幼い女王はそう無邪気に宣った。
    ぷっと吹き出す美貌の摂政と、優雅に笛を吹いてきた金髪の青年が思わずずっこける。
    「…あ、あのね、ヒミコ。これは鬘じゃなくてミーの自毛なんだってば…」
    「嘘を申せ。そのようなスチャラカな髪をした者がおるわけなかろう。のぅ、ツヅラオ?」
    「確かに。」
    くすくすと笑いながら答えるツヅラオにウシワカは「知ってるくせに」と毒づく。
    「妾も一度そのスチャラカな髪にしてみたい。染めるとなかなか元に戻らぬが、鬘なら好きなときに被ればよい。早う教えてたもれ?」
    「あーうー…」
    「ヒミコさま。このツヅラオに名案がございます」
    困り果てるウシワカにツヅラオが助け舟を出す。
    「ほう。なんじゃツヅラオ?」
    「鬘がないなら作ればよいのです。材料なら…ほら、目の前に」
    「…おぉ、なるほどな!」
    ツヅラオとヒミコの目が、同時に獲物を狙う狩人の目に変わる。
    「…え…ちょ、待って待って!?シスター・ツヅラオ!どこから鋏なんて取り出したんだい!?ウェイト、ウェイト!!」
    「ホホホ!観念せい、ウシワカ!髪なんぞ根元から剃ってもまた生えてくるぞよ!」
    「…との仰せですよ。ウシワカ殿、御免!!」
    「ノー、ノー!!らめぇえええぇええええ!!!」

    「…なんて事もあったっけな…毎日がスリリングでユニークで…とっても楽しかったよ」
    くすりと小さく笑い、ウシワカはゆっくり立ち上がる。
    「…行こう。今からなら夕方には西安京に着けるはずだよ」
    「…はい」
    丘を下り、浜辺に差し掛かると、アマテラスは裸足で波打際で波と戯れシャチ丸と再会を果たす。
    シャチ丸は龍宮では新たに誕生した世継ぎ・ウミヒコの成長とオトヒメの健在を伝え、
    久しぶりの再会記念にアマテラスとウシワカをその背に乗せ大海原を走るのだった。
    西安京近くの浜辺で降ろしてもらい、シャチ丸に別れを告げると二人は西安京へと至る門の前に立つ。
    アマテラスの手を握るウシワカの手が震えていた。
    「…ウシワカ」
    「…情けないだろ…?いざここに立つと…怖くて仕方ないんだ…」
    自嘲気味に笑うウシワカに、アマテラスは自分の手を重ねる。
    「…大丈夫。あの子は貴方を待ってますよ…」
    「…そうだね…こんなとこ見られたら笑われちゃうね」
    もう一度、アマテラスの手を握り、ウシワカは微笑んでみせる。
    アマテラスも微笑み返し、二人は西安京へと向かい、歩き始めた。
    続→