大神異見聞録・外伝

星の在り処・其の壱

  • どうして。
    恋しいひとの姿は、こうも簡単に探し出せるのだろう。
    大勢の人の名かに紛れてもなお。
    輝くばかりにして目を奪うのだろう。
    背を向けても。
    肩の線、指先だけでも、何故見分けられてしまうのだろう。
    様々の音の入り乱れる中でさえ、くっきりと届く声。
    あの指が微かにでも肌に触れることはないのに。
    あの声が自分に愛を語ることはないだろうに。
    あの瞳に熱っぽく見つめられることはないだろうに。

    どんなに望んでも、男と女の契りを交わすことなどないだろうに。

    何故この想いは消えることがないのだろう。
    日に日に想いが募るのは何故だろう。

    この想いは、ただまっすぐに、心の磁石の指し示すままに向き進んでいる。
    ずっと、ずっと好きだった。
    でも…。



    スサノヲの朝は早い。
    タカマガハラの地平に太陽が差し掛かる前に目覚め、朝の鍛錬が始まる。
    軽装で森を駆け回り、空を蹴る。
    ヤマタノオロチによって蹂躙され、タタリ場と化したあの惨状が嘘のようだった。
    ナカツクニからヤマトで帰還したアマテラスは、まるで夢現の様子でぼんやりとタカマガハラの地に
    降り立ち、その場でくたりと倒れこんでしまった。
    何事かと血相を変えるスサノヲやウシワカたちを他所に、アマテラスを中心に
    淡い虹色の眩い光が溢れ、一瞬にしてタカマガハラを浄化してしまった。
    それほどにナカツクニの人々の祈りは、アマテラスに力を与え、アマテラス自身も
    本来の神力を取り戻していた。
    あとは筆神たちの活躍で、タカマガハラはすっかり元通りになっていた。
    清々しい、まだ少し冷たい風を感じながらタッタッと軽い足音を立てて疾るスサノヲ。
    「風ちゃんも誘えばよかったかな?」と元気印で颯爽と走り抜ける少女-風神を思い出す。
    いつもの森に、見慣れない花を見つけてスサノヲはふと足を止めた。
    すこし変わった形で薄絹のような花びらが幾重にも重なり、可憐な大輪の花。
    白い花びらの縁を、優しい桃色が飾っている。
    甘く、うっとりするようないい匂いがする。
    「へぇ…なんか、姉上みたいだ」
    花はさほど詳しくないスサノヲだが、この花は一目で気に入った。
    アマテラスにも見せてあげたい。
    「なぁ、おまえ。俺と一緒に姉上の所に行かないか?」
    花にそう問いかけると、風もないのに花びらからさわさわと揺れた。
    微かに花が喜んでいるようにも見える。
    「そっか。おまえもそのほうが嬉しいよな…あとで咲ノ花神に頼んで姉上の庭園に根を張らせてもらおう」
    上機嫌でそっと花に手を伸ばす。腰から護身用の短剣を取り出し、根をむしらないように、優しくそっと茎を切る。
    こうしておけば季節が巡り、また花を芽吹かせる。
    花を両手で包み、花びらが散らないように大切に抱え、疾風の勢いで大本殿へと駆け戻る。

    朱と白を基調にした大本殿はアマテラスの居城であり、三貴子であるスサノヲの居城である大聖院も同じ敷地内に
    あり、筆神御三家それぞれの宮に加えて、彼らの身辺の世話をする天神族たちも大神殿で寝食を共にしている。
    アマテラスが下界へ下り、荒れたままだったタカマガハラも本来の美しさを取り戻しつつある。
    荒廃した大地に花三神が花を芽吹かせ、濡神が湖や川を浄めた。
    風神の風は季節を運び、燃神の炎が闇を照らし、人々に暖を与えた。

    大本殿では天神族の少女たちに軽く挨拶を交わし、アマテラスの庭園へと向かう。
    この季節、花三神たちによって献上され整えられた庭園は、瑞々しい緑と目も覚めるような青や紫の花々で彩られ、
    絡まる蔦で形どられた聖水盤からは清浄な水が湧き出て庭園を潤している。
    小鳥たちが朝の囀りを交し合い、スサノヲに気づくと道案内とばかりに忙しく周囲を飛び回った。
    甘い花の香りがスサノヲに打ち寄せてきた。
    整えられた庭園は垣根ごとに植えられた植物の種類が分けられており、そう広くはない面積だが
    歩きやすいように石畳で細い小道も作られている。
    小鳥たちが案内してくれる小道の向こう、緑の垣根の向こう側に、風に揺れる銀髪を見つけた。
    「あねう…」
    呼びかけて、その隣にもう一人いるのに気がつく。
    満月のような明るい黄金の長髪が目に飛び込んできた。
    アマテラスとウシワカだ。
    二人、仲睦まじく談笑しながら庭園を見回っている。
    銀と金の輝きが対照的で、その二つが昇り始めた太陽に照らされて幻想的に輝く。
    愉しげに言葉を交わす姉は、自分が知っているどの笑顔よりも美しく穏やかで…。

    とても幸せそうだった。

    その視線に気づいたのか、「あら」とアマテラスがスサノヲを振り返る。
    「おはよう。いつも早いのね、スサ」
    ウシワカも気づいたのか、「おはよう」と笑顔で振り返る。
    それには構わず、「おはようございます、姉上」と満面の笑みでアマテラスに歩み寄る。
    「珍しい花を見つけまして…ぜひ姉上にと」
    「まぁ…本当。素敵ね」
    「摘んでしまうのももったいかと思ったのですが…」
    「そうね、咲ノ花神に頼んでこのお庭で育ててあげましょうね」
    「へぇ珍しいね…八重珊瑚礁だ」
    横で二人のやり取りを見ていたウシワカがヒョイと覗き込む。
    「八重珊瑚礁?」
    聞きなれない単語にアマテラスとスサノヲがきょとんと目を丸くする。
    「うん、色が珊瑚に似てるでしょ?大抵は一重なんだけど、こうやって八重咲きになってるのを真上から見たら、
    なんとなく珊瑚礁みたいに見えるっていうんでそう呼ばれてるらしいよ。
    半分はこじ付けみたいなものだけどね」
    言われてみればそう見えなくもないが…珊瑚礁というにのは若干無理があるような気がする。
    まだ満開の蓮の花の亜種といわれたほうが納得できる。
    「ふーん…」
    どこか腑に落ちない様子のスサノヲ。
    (コイツ、ヘンなとこでヘンな知識だけは持ってるよな…)
    「ウシワカはなんでも知っているのですね」
    嬉しそうなアマテラスにウシワカも少し照れたように笑う。
    「いや、ツクヨミさまから教わったんだけどね…」
    ツクヨミの名が出た途端、スサノヲを表情が険しくなる。
    射ぬかれるような視線にウシワカは「しまった」と閉口する。
    突然の不穏な空気なアマテラスが驚く。
    「スサ…?」
    「それでは姉上、失礼致します。お邪魔しました」
    心配そうな姉に有無を言わせず背を向け、急ぎ足で庭園を後にする。
    やたら胸の奥がモヤモヤと、言葉にできない感情がぐるぐると渦巻いている。
    ウシワカが来てから、そんなことばかりだ。
    アマテラスの隣にいて、手助けをしたい。
    そして何よりあの笑顔を守れる存在でありたいと願うのに、思うようにいかない。
    アマテラスもナカツクニから帰ってきてからというもの、弟であるスサノヲよりもウシワカと
    行動を共にしていることが多い。
    200年間会えなかったのはスサノヲも同じだ。
    かつてタカマガハラがヤマタノオロチに襲撃され、天神族とアマテラスを方舟・ヤマトに乗せ
    殿(しんがり)を務めたスサノヲだが、黄金の結界に守られたオロチには苦戦し、遂には魔の手に堕ちた。
    ヤマトの内部では先にタカマガハラを脱出したはずの天神族は全滅。
    そのヤマトの中に、ナカツクニを守護するはずだった自分が、200年もの間封印され、
    神格が落ちたアマテラスとウシワカたちの手によってナカツクニは救われた。
    そのことを思い出し、ムッとしかめっ面になり。
    正直言って「面白くない」。
    (…天神族でも神族でもないアイツがなんで姉上の隣に…)
    はぁと大きくため息をつく。
    胸の奥がなんだか変な感じがする。
    先程ウシワカと話していたアマテラスの顔をもう一度思い出す。
    何故、姉はあんなにも穏やかで…満ち足りた表情をしているのだろう?
    「よぉ、大聖」
    呼び止められたが、気持ちが治まらずつい上目遣いで相手を睨みつける。
    「うわ、お前その目つきヤバイって。女の子が見たら泣いちまうぞ?」
    そう冷やかしたのはアマテラスの従属神・筆神の一人、燃神だ。
    女子供であれば天神族も筆神も人間も関係なく非常に紳士的なスサノヲで
    天神族の女性たちからの人気と支持は絶大だ。
    にも関わらず三貴子という特殊な立場にあってか、色沙汰は全く耳にしない。
    火のあるところに煙は立ちそうなものなのだが。
    「…なぁ…紅蓮」
    「なんだよ、改まって」
    珍しく声のトーンが沈んでるスサノヲに、燃神は身を乗り出す。
    「お前、濡神と契ったのか?」

    ぶはぁああ!!

    燃神が盛大に吹き出し、スサノヲの顔面に唾が飛び散る。

    「…紅蓮…」
    「おまっ…朝からいきなり何ぬかしてやがんだ!!」
    顔から湯気を噴出し、押さえきれないのかちらほらと炎まで噴き出し、真っ赤になりながら燃神が怒鳴る。
    顔をぬぐい、不思議そうな顔をしながらスサノヲは首をかしげる。
    「…筆神たちは俺たち三貴子と違って力の衰えがある。だから世代交代がある。
    つまり交配しなければならない…だから恋愛をするんじゃないのか?」
    「待て待て待て待て待て待て!!!!」
    書物に書いてあることをそのまま覚えただけのような、成人男子としてはいささか偏りすぎる捉え方に
    燃神は慌てて「待った」をかける。
    「お前なぁ…いくらなんでもひでぇぞ、その考え方。確かに一族を繁栄させることも大事だが、
    その為だけに恋愛するわけじゃねぇよ…そういうところもあるらしいが、少なくとも、酉族じゃんなこたぁなかったぜ?」
    「じゃあ…何故…皆、恋をするんだろう…?」
    そう呟いたスサノヲの声音と表情に、燃神は言葉を失った。
    まるで迷子になった幼子のような。
    断神の一閃三式をも凌ぐ剣術と、凍神をも唸らせる体術を持つ、実質タカマガハラ一の最強の武神といわれるこの男が。
    かつてこんな表情を見せたことがあっただろうか。
    あまりのことに、燃神はごくりと生唾を飲み込む。
    と、同時にスサノヲの表情の原因を思いついた。
    アマテラスとウシワカだ。
    この時間、二人は毎朝のように庭園を散歩している。
    「姉上も…恋をしておられるのだろうか…?だからあれほどに…」
    そこまで言いかけてグッと唇が引き締められる。
    言いたくない。
    口にすることがあまりにも悔しい。
    その代わりに、十貫もありそうなため息をついてキッと顔をあげ、基壇をひょいと飛び越え、
    中庭にある井戸へと疾ってゆく。
    「あ…おい、大聖!?」
    あっけにとられた燃神が正気に戻り、スサノヲを追おうとした時には、すでにスサノヲは井戸から汲み上げた
    桶の水を自らに向けて、頭から勢いよくぶちまけたのであった。
    スサノヲはもう一度桶を井戸に落とし、溢れんばかりの水を再び頭から被った。
    何回か水を浴びたあと、ようやく「ふぅ」と一息つく。
    小麦色の髪が太陽の光を浴びてキラキラと眩い光を放つ。
    前髪にかかる水滴をピッと払いながら、スサノヲは燃神を振り返った。
    その顔にはまだ若干翳りがあるものの、先程に比べると元気を取り戻したように見える。
    「紅蓮ー。乾かしてくれ」

    俺は自動乾燥機じゃねぇってのに。

    内心愚痴りながら、燃神は石檀に乗り、バサリと羽を羽ばたかせる。
    一瞬でスサノヲのいる井戸までたどり着いた燃神は、いつも愛用している煙管をすぅっと吸い込み、
    吸ったのと同じ勢いで、スサノヲに向けて息を吐いた。
    炎の息吹を孕んだ熱風は、炎のそれと同等の威力を持ちながら、見事に制御された神力で、
    スサノヲとその衣服を焦がすことなく、スサノヲの身体と衣服に纏わりついた水滴だけを綺麗に蒸発させた。
    その様子を少し離れていた回廊から見ていた天神族の女性たちから残念がる声が上がる。
    「いつもの大聖さまも凛々しくて素敵だけれど、濡れて衣服が張り付いたのがまた艶やかで…」
    「首筋を流れる水滴が扇情的だったわぁ」
    とかなんとか。
    「…そうか、濡れてるのが女性は好きなのか」
    「いや、それはまた色々と違うから」
    さっきよりさっぱりした顔でぼそりと独りごちるスサノヲに、燃神がすかさずツッコむ。
    「好き、か…」
    またスサノヲがぼそりと独りごちる。
    「ん?なんだ、お前。気になる女の子でもいるのかよ?」
    「…」
    答えないスサノヲ。
    照れて言い出せないというよりは、何か考え込んでいる。
    それも物凄く真剣に。
    最近どうも様子がおかしい。
    こと恋愛に関して本気で悩んでいるようなのだ。
    見ていて気の毒になるくらいに。
    「…えーっと、アレだ、ホラ。この前なんか思い当たること、あったじゃねぇか」
    「…ん?あ…ああ、あれか…」
    心ここにあらずといった生返事で顔を上げたスサノヲが、ふと向こうの回廊から現れた人物に目を留める。
    なんだとスサノヲの視線を追いかけた燃神が、「あ」と上げかけた声を両手で慌てて押し込める。
    ふわふわと風に揺れる藤紫色の髪に、紅玉に金細工があしらわれた髪飾りが揺れる。
    ふんふんと暢気に鼻歌を歌ってやってきたのは幽神だった。
    何か風呂敷を大事に抱えているようだが、スサノヲの視線に気づくと、あからさまに顔を紅潮させる。
    「はわっ!?た、たたたいせ…」
    「おっす、幽(かすか)」
    軽く手を上げる燃神に、「おおおおおおおはよう!!!」と怒デカイ返事が返ってくる。
    対してスサノヲは動かず、一言も発しない。
    ただ静かに幽神を見つめているだけだ。
    うかつに視線をそらすことができず、幽神はしどろもどろになりながら両手で抱えていた荷物を背中の後ろに隠しつつ、
    スサノヲに軽く頭を下げる。
    「…あ、あの…大聖サマ…おはよう、ございます…」
    「…あ。…うん、おはよう、幽(かす)ちゃん」
    声をかけられ、ようやくいつもの笑顔で答えるスサノヲ。
    その「いつもの笑顔」になるまでにやや間があったのに、燃神は違和感を感じる。
    いつもなら自分から声をかけるような男なのに。
    挨拶されても返事をするのに時間がかかった。
    そして何より幽神を見つめていた。
    (大聖のヤツ…やっぱり幽の事、気にはなってんじゃねぇか…?)
    ラチヨ湖の封印を破り浮上した箱舟ヤマト。
    その中に封印され、アマクテラスの手により覚醒したスサノヲはヤマタノオロチ退治を自ら申し出た。
    そして補佐役として同行した幽神だ。
    幽神はその時自分の実力を認めてもらえたのが嬉しかったと笑っていた。
    ではスサノヲはどうなのだろう?
    この男の性格からして女性を戦闘に、しかも大妖怪との戦いに巻き込むようなことは好まないはずだ。
    自分の背にかばうことはあっても、「背中を任せる」ことはまずあり得ない。
    それをスサノヲは幽神に自分の背中を預け、見事にヤマタノオロチへの雪辱を晴らし、討ち取ってみせた。
    何かしら心の変化があったことは間違いない。
    「幽ちゃん…今隠した荷物、何?」
    「ひぇ!?えっと、えっと…!」
    嘘をつけない性分で誤魔化すこともできない友人に、燃神は「やれやれ」と助け舟を出してやる。
    「さっき慈母に呼ばれてただろ?その荷物じゃねぇのか」
    「えっ!?う、うん、そう、それそれ!!慈母へのお荷物ですぅ!」
    「ふぅん?」
    不思議そうに頷いたスサノヲだったが、「ああ」と納得する。
    「今日、神木村の神木祭だもんな…そうか…久しぶりの神木祭だな…」
    花の香りに守られた素朴で温和で、どこまでも優しい彼の村を想いながら、スサノヲは顔を綻ばせる。
    200年、ヤマトの中に封印され、そしてそのままタカマガハラに戻り復興に勤しんできたのだ。
    「サクヤは…サクヤは元気にしてたかな?」
    そこまで言って、ふと真顔になるスサノヲ。
    「?どうした、大聖」
    「………」
    「大聖さま?」
    「…ごめん、なんでもない」
    珍しく作り笑いをしながら軽く手を振り、スサノヲはその場を後にした。
    胸の奥に、何かがつっかえているような違和感が消えないまま、自室のある大聖院へと戻っていった。
    それとは別に、何故かやけに胸の鼓動が速くなっていることに気づく。
    (…?なんだ…胸が苦しい…?)
    (水の浴びすぎで冷えたかな…?)
    そんな事を考えていると、気づいたら早足から駆け足になっていた。
    (ああ…なんだ、呼吸が上がってるだけか…)
    とにかくこの不可解な状況から抜け出したくて、スサノヲは走った。
    逃げるように、または何かを求めるかのように。
    続く→