大神異見聞録・外伝

星の在り処・とある龍神の恋の方程式

  • どうして。
    恋しいひとの姿は、こうも簡単に探し出せるのだろう。
    大勢の人の名かに紛れてもなお。
    輝くばかりにして目を奪うのだろう。
    背を向けても。
    肩の線、指先だけでも、何故見分けられてしまうのだろう。
    様々の音の入り乱れる中でさえ、くっきりと届く声。
    あの指が微かにでも肌に触れることはないのに。
    あの声が自分に愛を語ることはないだろうに。
    あの瞳に熱っぽく見つめられることはないだろうに。

    どんなに望んでも、男と女の契りを交わすことなどないだろうに。

    何故この想いは消えることがないのだろう。
    日に日に想いが募るのは何故だろう。

    今日も唇から零れるのは想い人を表す数式のみ。


    ああ、円周率。

    あなたはどうして円周率なのだろう?



    「897932984626338327950288…」

    鼻歌を歌いながら、蘇神は書斎の本棚を整理していた。
    最近スサノヲに影響されたのもあって西洋の新たしい本をいくつか仕入れたばかりだ。
    様々な文化の本を読んだが、やはりどの本にも描かれている数式の世界は美しい。
    この世界に存在するものの全てが数式で証明できる。
    万物の証明に至る数式とはなんと美しいことか。
    「…ん?」
    庵の出入り口に人の気配を感じ、蘇神は顔を上げた。
    「よう」
    そう言って片手を上げたのは珍しい客人ースサノヲだった。
    「おや大聖。貴方がここくるなんて珍しい。何かお困り事でも?」
    「ん…まぁちょっと、人生相談っていうか」
    自分より尊い存在でありながら、蘇神のほうがスサノヲより生きている年数は長い。
    撃神・凍神とともに先代の大神・イザナギの代からの筆神でアマテラスだけでなくツクヨミやスサノヲも一目置かれている。
    ツクヨミ不在の時は、アマテラスも時々、何か行き詰ったことがあればよく蘇神の庵を訪ねてきたことがあった。
    「ああ、恋愛相談ですか」
    にっこり笑ってみせると、スサノヲは火がついたようにボッと顔を赤らめた。
    「えっ。あの、何で知って…」
    「見ていれば分かりますよ。神木祭の後ぐらいの頃からではありませんか?貴方がたの仲がなんとなく密接になって、
    いい雰囲気だなぁ、と」
    スサノヲは口をパクパクさせている。
    本人は隠しているつもりだったらしい。
    「えっ何ソレそんなにイチャついてたっけ?」なんて顔に書いてある。
    「うん…まぁ、その……うん」
    気高い軍神が珍しく気まずそうにぽりぽりと頬をかく。
    何事にもあけっぴろで爽やかなスサノヲがこんな表情を見せるのは珍しい。
    「何か行き違いでもあったんですか?」
    「あ、いや…うーん…なんていうか」
    奥に入るように勧めながら蘇神は茶の支度を始める。
    歯切れが悪いスサノヲも、本当に珍しい。
    「…蘇神は、恋愛ってしたことあんの?」
    「ええ、現在進行中ですよ」
    「えっ」
    思いもよらなかった答えにスサノヲが驚く。
    「好きな人って…円周率とかいうやつ?」
    「何ですか人聞きの悪い…私だって男ですから人ぐらい好きになったりしますよ」
    ポカーンと開いた口が塞がらないスサノヲ。
    あまり生活感を感じさせず、だいたいは書斎に篭っては膨大な書物と睨めっこしているようなイメージしかない、
    とどのつまり引きこもりのようなイメージしかなかった蘇神に、人並に恋愛経験があるとは…。
    自分だけが初体験のような気がしてますますなんだかちょっぴり恥ずかしくなるスサノヲだった。
    「その好きな人って筆神の中にいんの?」
    「さぁ、どうでしょう?」
    やんわりとかわされ、スサノヲは口を尖らせる。
    蘇神はスサノヲに茶を手渡しながら、自分もスサノヲに向き合うように座る。
    「まぁ私の場合は…ただの自己満足でしょうね」
    「自己満足?」
    「そうです、自己満足です」
    はははと笑いながらあえて強調した。
    「私の好きな…好きかもしれない人はね、すでに好きな人がいるんですよ。それはもうお似合いな。
    だから私が入り込む隙なんてないんです。私はね、その人とその好きな人が一緒に楽しそうにしているのを
    見るのが大好きなんですよ…つまりね、私のことなんてこれっぽっちも見向きもしないその人が好きなんです」
    ズズッと茶を一口すすり、そう語る蘇神。
    「え。…それって永遠の片想いってやつ?」
    「ええ、そうですね。だから自己満足なんですよ」
    「…ふーーーーん…?」
    少し理解できないというようにスサノヲは首を傾げる。 恋愛というのは男女がお互いを好きになりあってこそ成り立つものではないだろうか?
    時々同性間でもあるようだがスサノヲの脳内にはそこまでの想像力はない。
    永遠の片想い。
    究極の自己満足。
    目の前の龍神は自分はそれでいいいのだと笑って語る。
    「で、大聖の相談事って何ですか?」
    「えっ…あ、…うん。付き合うって…その、何をすればいいのかなぁって」
    「おやおや…別段、珍しいことをしなくてもいいと思いますよ?今までと同じように接していれば
    大丈夫だと思いますが」
    「そうかなぁ」
    「強いて言うなら、他の女性との扱いとは分けたほうがいいですね。大聖は女性にお優しいですから。
    あんまり他の女性の優しくしてるとさすがの幽神も拗ねてしまいますよ」
    「そ、そうか…うん、気をつけるよ」
    「で、どこまでいったんですか?」
    「うぇ!?」
    茶を飲みかけた手がびくりと止る。
    「どこまでって…べ、別に、特に何も…口吸いしたぐらい、だよ…」
    「別に悪いことをしているわけではありませんから。順調なようで何よりです」
    茹でタコのように真っ赤になったスサノヲを微笑ましく思いながら蘇神は茶をすする。
    しばらく2人とも無言で、庵には虫の鳴き声と茶をすする音だけが響く。
    「…サンキュ、蘇神。俺なりに頑張ってみるわ」
    「ええ。応援しておりますよ」
    軽く手を振ってスサノヲは庵を後にした。
    スサノヲの姿が消えるを待って、蘇神はふっと笑う。
    「永遠の片想い、ですか…まぁそれでいいでしょう」
    くすくすと笑いながら、再び本棚の整理に戻る。
    「さて…263383279502…」
    円周率。
    それは永遠にめぐり続ける美しい数式。
    自分の恋も、そうやって巡り続ければいい。
    例え、相手から顧みられることがなくても。
    究極の自己満足で自分を満たしていけるなら、それでいいのだと蘇神は思った。