大神異見聞録・本文

珠洲の章・第参話「天地神楽」

  • 夢を見ているのだ、とアマテラスは感じた。

    ふわふわ霧に包まれと、足元には名も知らない白い花が咲き乱れている。
    ゆっくれと大地を踏みしめる感触はあるのに、どこか現実味のない場所。
    ゆるゆると光源が揺らめいていて、蛍かと思ったが違っていた。
    足元から少しずつ湧き上がってくる光源はアマテラスの頭上よりもっと高く、ゆるゆると上っていく。
    (死んでしまった魂が、タカマガハラよりも、もっと高い神世へと昇っていく…)
    ぼんやりとそんなことを考えていた。
    そのアマテラスの目の前-濃い霧の一部がゆるりと動いた。誰かがやってくる。
    背の高さと肩幅からして…男?
    だがツクヨミともスサノヲとも違う。
    人影はまっすぐ、ゆっくりとした足取りでアマテラスに近づいてきた。
    怖い、という感じはせずアマテラスはぼんやりとその人影が自分の間近に来るのを待った。
    霧がだんだんと晴れ、その人影が間違いなく男であることを確認する。
    袖なしの長衣からは健康的でしなやかな筋肉のついたそれは、一目で男のものとわかる。
    白く澄んだ、自分とよく似た純白の髪に、白い長衣。
    だがその長い前髪に邪魔され、顔の詳細まだは伺いかねる。
    (…誰?)
    (…『初めて会う』…)
    アマテラスの思考を読み取ったかのように、男の口に優しい笑みが浮かぶ。
    「…私は、どうすればいいのでしょうか」
    その笑みを見た途端、ふいにアマテラスの口からそんな言葉がこぼれた。
    一瞬自分でも不思議に思ったが、目の前の男を見ていたらそんな疑問すら掻き消えた。
    男はアマテラスと目が合うように少し身をかがめ、その頭をそっとなでた。
    同じ目線のはずなのに、どうしても男の顔を見えない。
    ただ、純白の流れるような髪の間から覗いた深紅の瞳が、ツクヨミと同じような優しく、
    どこまでも包み込むような光を称えていた。
    (…私、この人を知ってる…?)
    ちょこんと首をかしげるアマテラスに、男は子供のような悪戯っぽい笑みを浮かべるのだった。
    そしてアマテラスの頭を撫でていた手をゆっくりと肩へと下ろし、
    もう片方の手も同じようにアマテラスの肩へと置いた。
    何かと言葉を待つアマテラスに、男はゆっくりと言葉をつむいだ。
    アマテラスはその言葉ひとつひとつにうなずきながら、すべてを胸に刻み込んだ。
    そうして男は再び笑うと、両手で抱えるほどの光源をアマテラスに差し出した。
    (燃えている)
    そう感じた途端、それは音もなくアマテラスの中に吸収されて消えた。
    次の瞬間、世界が反転した。
    純白の世界は消え、漆黒の闇が広がる。
    身も凍るような寒さを感じアマテラスは身震いをした。
    (タタリ場の中だわ…)
    周囲を見回しても、歩き進めど、どこまでも闇、闇、闇。
    神であるアマテラスの肌をチリチリと焼くような痛みが走る。
    寒さと痛みで膝を付きそうになったアマテラスの耳に、微かな声が聞えた。
    これは…子供の泣き声?
    ハッと顔をあげ、声のする方向へ集中すると、淡い光が灯っているのに気づいた。
    手を伸ばし、触れようとした瞬間。

    ぱちんと何かが弾けたような音がしてアマテラスは目が覚めた。
    刻は夜明けをすぎたぐらいか。
    しばらくは寝台の上でぼんやりしていたが、夢の中で男がつぶやいた言葉を反芻する。
    そして、タタリ場の中で見つけた淡い光。
    考え込んでいたアマテラスだが、何か思いついたのか寝台から降り身支度をする。
    そしてきゅっと自分の胸に手を当てる。
    (タタリ場の中に、答えがある)
    そう確信したアマテラスは手早く身支度を済ませて、周囲も省みず一人ナカツクニへと下っていった。

    「…うん?」
    アマテラスの様子見をと思って妹の部屋に向かっていたツクヨミは、
    慌しそうな天神族の娘たちに声を掛ける。
    「どうした?何かあったのかい」
    「つ、ツクヨミさま!そ、それが…」
    何事かとアマテラスの寝所を覗くとアマテラスの姿が見当たらない。
    いつもならば整えられている寝台が、主が抜け出したそのままの形に投げ出されている。
    「わ、私たちがお声をかけたのですが一向にお返事がなく…
    ご無礼を承知で扉を開けたらこの有様でして…」
    しどろもどろで青ざめる天神族の娘たちをなだめながらツクヨミはハッと顔を上げる。
    まさかアマテラスは一人でタタリ場と化したナカツクニへ…?
    だとしたら危険なことこの上ない。
    いくらアマテラスが三貴子でただ一人『穢れを祓える神力』を持っているとしても、八咫鏡がなくては意味がない。
    「あにうえ!あねうえは…」
    「スサ、行こう」
    いつもと違う様子に急ぎ足で向かってくるスサノヲの腕を取り、ツクヨミは踵を返した。
    (一体何をしようというのだ、アマテラス…)
    耳元で鳴っているかのような己の鼓動がこれほど煩いと思ったことはない。
    ツクヨミとスサノヲもアマテラスの後を追いナカツクニへと下った。

    厄い。
    アマテラスが感じたのは恐怖と、そして憐憫。
    災厄に飲まれ負の感情が妖気を呼び、生命が活動できずただ枯渇してゆくだけの不毛の地。
    何日か前に比べてタタリ場の範囲が広がっている。
    黒く紅い底なしの闇。
    触れれば身体の芯は氷のように冷えるのに、その妖気はまるで炎のようにちりちりと皮膚を焼く。
    アマテラスはまだタタリ場に飲まれていない草原に立ち、すうっと深呼吸した。

    《私を呼んでいるのは誰?とてもか弱く でも確かに感じる貴方の息吹
    教えて 貴方は私に何を伝えたいの?》

    神代語でそう語りかけ、深く深呼吸する。
    神代語は、口にするだけで体力を消耗する。
    だがこれは消耗からくる疲れではない。
    どきどきと止まらない動悸を抑えるために、アマテラスはもう一度深呼吸する。

    《私を呼ぶのは貴方?とてもか弱く でも確かに感じる貴方の悲しみ
    教えて 貴方は私に何を伝えたいの?》

    ゆるりと。
    タタリ場が動いた。
    まるでその言葉に反応するかのように。
    じっと目を凝らしていなくては気づかないほどの揺らぎ。
    それを確信したアマテラスはそっとタタリ場に向かって歩き出す。
    そしてゆっくりとタタリ場に伸ばしたアマテラスの指先にちりっと痛みが走る。
    何かに噛み付かれたような痛み。
    それが内側から痛みが和らいでいくのが分かる。
    八咫鏡がアマテラスの神代語に反応しているのだ。
    痛みが和らぐのを感じたアマテラスはゆっくりとその身をタタリ場へと沈めた。
    タタリ場の中はまるで墓場だった。
    皓々と風が靡き、魔物や死者たちの呪怨の声が絶え間なく聞えてくる。
    草木は枯れ、動物たちは皆死に絶え、白骨となって転がっている。
    ごくりと喉が鳴り、アマテラスは自分の肩を抱く。
    本当は怖くて怖くて仕方がない。
    だが、あの夢には確信性があった。
    あの光に必ず答えがあるはが…!
    そう自分に言い聞かせ、アマテラスは両腕を広げた。

    《私を呼ぶ声 それは確かな貴方の声
    聞こえるわ だから大丈夫 ちゃんと届いているから
    ここへおいで 何も悲しまないで 私がいるから
    ここへおいで 何も恐れないで 私がいるから》

    アマテラスの歌声が虚しくタタリ場に響く。
    タタリ場ではやはり詩の効力はないのだろうか…それとも、あの夢は夢にすぎなかったのだろうか?
    そう思ったとき。
    アマテラスの目の前、前方の先で小さく、淡い光が灯った。
    注意してみなければそれとは気づきにくい小さなそれに、アマテラスはゆっくりと近づいていく。
    と、だんだんすすり泣くような声が聞えてくる。
    子供の泣き声だ。
    アマテラスの足が早くなる。
    淡い光の中で泣いていたのは子供だった。
    ただの子供ではない。
    額に小さな角がある。
    子鬼だ。
    子鬼はしゃがみこんでめそめそと泣いていた。
    アマテラスに気づくと顔を上げ鼻を鳴らしてすがるような目で見つけてきた。
    「…ここで、どうして泣いているの?」
    尋ねるアマテラスに、子鬼はまたえーんと泣き出してしまう。
    アマテラスは膝をつき、そっと子鬼の頭を撫でてやる。
    「うっううっ…オラのせいなんだ…オラがここにいるから…うえーーーん!」
    「何が貴方のせいなの?」
    「………花……」
    「花?」
    子鬼が指差すほうを見ると、くたりと枯れたたんぽぽがあった。
    「オラ、たんぽぽが咲いてるとこが見たくて…でも、オイラが近づいたら枯れちまったんだ…
    やっぱり、オラが妖怪だから、お花も咲かないんだぁ…うわーーーん!」
    再び泣き出した子鬼。
    泣き声に呼応して、周囲の闇が蠢く。
    そこでアマテラスはようやく気づいた。 (この子がこのタタリ場を作り出しているんだわ…)
    こんな小さな妖怪が、これほど広大なタタリ場を作り出してしまうとは…。
    それほど純粋でまっすぐな想いなのだろう。
    子供の思いは、時に大人のそれをも凌ぐほどの力を持つ。
    もしくはこの子鬼が持つ計り知れないほどの潜在能力…
    それがこの邪悪なタタリ場を作り出しているのだろう。
    子供といえど、倒すべき醜悪な妖怪。
    ここで討つべきだろうがー。
    (…いいえ、そうではない…)
    アマテラスは凛とした瞳で目の前の子鬼を見つめた。
    (妖怪といえど、その想いそのものはとても純粋なもの…それが闇に堕ちるか堕ちないか…)
    (いいえ、例え堕ちたのだとしても私は…!!)
    アマテラスは両腕を広げ、子鬼を抱きしめた。
    「大丈夫…もう大丈夫よ…」
    「…?おねえちゃんは、誰さ…?」
    「私…?私はね…」
    にこりと、まるで陽だまりのような温かな笑顔を浮かべるアマテラス。
    「私はアマテラス…全ての生命を慈しみ、救う者よ」

    スサノヲはかつてないほど焦燥している兄に驚いていた。
    髪を振り乱し、アマテラスが向かったであろうタタリ場へと走るツクヨミ。
    そこにはいつものような余裕は微塵もなかった。
    (アマテラス…アマテラス…!!)
    額に汗を滲ませ、荒い息をつきながらツクヨミは走った。
    ただ、ただ、愛しい妹のことを思いながら。
    優しいあの子のことだ。
    何か無茶をしているのではなかろうか?
    あの子の美しい肢体が妖怪どもに傷つけられているのではないか?
    想像しただけでもおぞましい。
    右腕に冷気が宿り、八尺瓊勾玉を召喚する。
    (アマテラスにもしものことがあったら私は…!)
    妖怪たちをただ殺すだけでは飽き足らない。
    惨たらしく、どこまでも残酷に、生きながらに殺してくれる…!
    ツクヨミの瞳に残忍な光が宿る。
    と、その時。
    目の前のタタリ場から光が弾けた。
    「!?」
    光は起立し、やがて天へと高く伸び上がる。
    眩い光でありながら、それは決して瞳を射ることはない聖なる光。
    花風を舞い上げ、光はどんどん勢いを増してゆく。
    「あにうえ、あそこ!」
    スサノヲが指差した場所に、少女の面影が見えた。アマテラスだ。
    アマテラスは両手で何かを大切そうに抱きかかえている。
    どこかぼんやりとした表情の妹に、ツクヨミは呼びかける。
    「アマテ…!」
    全てを言わせず、ツクヨミとスサノヲの目の前で再び光が弾けた。
    「…光、あれ」
    アマテラスの可憐な唇が、小さくそう呟く。
    すると、光の中でアマテラスの体が、少しずつ変化していく。
    人形のようなふっくらとした頬がやや引き締まり、目鼻立ちがくっきりとしてくる。
    子供から大人へ。少女から女へ、美しく変貌してゆく。
    その胸には、まるで母親に甘えているかのように安心しきって眠っている子鬼がいた。
    「妖怪が…何故アマテラスと…」
    呆然と呟くツクヨミ。それに気づいたのか、アマテラスがゆっくりとツクヨミたちを振り返った。
    「あに様、スサ。こちらへ」
    手を差し出し、にっこりと微笑むと、ツクヨミとスサノヲの身体がふわりと浮かんだ。
    まるで何かに引き寄せられるかのように、空中で三柱の神々が邂逅した。
    「アマテラス…これは一体…?」
    「あに様。私ね、わかったの」
    そう言い、アマテラスは腕の中で眠る子鬼の頭を優しく撫でる。
    愛撫され、少しくすぐったそうに子鬼は微笑む。
    「妖怪も、私たちも、元は同じ生命。ただ運命によって分かたれた一つの大きな生命だったの。
    私は、妖怪たちをただ醜悪で邪悪な生命だと思い込み、恐れてしまった…闇もまた、生命であるにも関わらず…」
    きゅっと唇をかみ締め、悔しそうに眉をひそめるアマテラス。
    「大切なのは心…想い、そして願い。私たちは、もっと生命のそういった部分に寄り添うべきではないかしら…?
    妖怪だって、運命を選べず生まれてしまったのだもの。私たちだって、運命を選べず…ううん、
    運命に導かれて生まれてきた…今こうして出会う為に」
    そう語るのは昨日泣いていた小さな妹ではなかった。
    毅然とした、ただ目の前の生命を想う美しい女神がそこにいた。
    「さぁ、謳いましょう?大切な生命たちが息づく、大切な…私たちの世界の為に」
    アマテラスの言葉とともに再び光と花風が弾けた。

    《ここへおいで さぁ怖がらないで 生命の祭典が始まる 皆で謳いましょう》

    それはかつてどこかで聞いたような、懐かしい子守唄の旋律。
    まだあどけなさを残しながら、だがしかしこれまでのアマテラスとは違う、強く、慈愛に満ちた歌声に、
    その場にいた誰もが思わず目を閉じ、聞き入るのだった。

    《貴方は知っている?この世界は誰をも優しく受け入れることを
    たとえ貴方がどんな罪で穢れても どんな恐れに傷ついていても
    世界は愛することをやめない 生命が繰り返し続く限り 永遠に》

    アマテラスたちを包んでいた光が一瞬収縮し、消えたかと思う次の瞬間。
    幕が上がるように広がり、満ちた。
    暗く閉ざされていたタタリ場に清浄な光が弾け、光の欠片が降り注ぐ。
    その欠片は決して害を与えるものではなく、生きとし生けるものすべての色彩を映し出す。

    《今は去りし 理を創られし神々は 偉大な詩の神力にてこの地を創造された
    その詩は御身が消えし今も世界を巡り 波となり光となり世界を祝福する
    いざ謳え 麗しき翡翠の世界の詩を 詩になる それはとても悦ばしいこと 
    いざ謳え 私はこの御魂と共に 詩になる》

    アマテラスの腕の中でまどろんでいた子鬼に光の欠片が降り注ぐ。
    欠片は子鬼を傷つけることなく子鬼の体内に柔らかく滑り込み、子鬼の魂と一つになる。
    と、子鬼の身体の内側から光が溢れ、子鬼を包み込む。
    そしてずっと見守っていたタンポポが、ゆっくりと首をもたげ、こぼれるように開花し、種を飛ばす。
    その種が風に乗り、きらきらと輝き飛んでいく。
    驚く子鬼だが、それが己の魂が浄化されたことに気づき、にっこりとアマテラスに微笑んでみせる。
    「ありがとだ、女神さま」
    満足げに微笑んだ子鬼の笑顔が光に包まれ一瞬大きくなったかと思うと、また光の欠片になって消えた。
    その様子を一部始終見ていたツクヨミとスサノヲは、目の当たりにした奇跡にただ呆然としていた。
    そんな二人に歩み寄り、アマテラスは二人の手を取る。

    《この想いは この詩は すべてを包み込む 幾千の魂が輝き降り 原初の愛ですべてが繋がる僥倖
    この想いで この詩で すべてを護りたい 揺るぎないこの想いと祈りを 世界よ どうか受け入れて
    ここからは皆の力が必要な世界 だから来て 謳って さぁ!》

    そのまろやかなアマテラスの歌声に促され、二神の唇を自然と動いた。

    《長い夜は明け 地平から陽が昇る 目覚めの刻が来たのだ 歓喜の声上げよ
    始まりの朝 包む太陽の光 すべては暖かな愛に見守られている》

    《全てを解き放ち 流れに身を委ねよ 心縛る鎖は砕かれ 迷いの霧は晴れる
    輝ける生命の円環 廻る輪廻の輪に導かれ 始まりの刻を刻む》

    《《《目覚めと再生を!!》》》

    三柱の神々のから神気が立ち上り、一つの巨大な光柱へと変貌する。
    詩を紡いだことがないはずのツクヨミとスサノヲの脳裏に不思議と想いが溢れ、言葉が紡がれてゆく。
    そして身体中の細胞が沸き立つような高揚感。
    アマテラスの紅色、ツクヨミの蒼色、スサノヲの金色の光が螺旋を描き天へと昇る。
    その光は遠いタカマガハラの神樹・イワナガまで届き、奇跡を起こす幾千の彩りとなってナカツクニの大地に降り注いだ。
    光に祝福され、歓喜の声に包まれるナカツクニ。
    その光の中で、スサノヲの身体が、より眩い光に包まれた。
    光の中でその姿がゆっくりと変貌していく。
    身体はがっしりと鋼のような筋肉の鎧を纏い、ツクヨミのそれより、より逞しい肉体へと変貌していく。
    スサノヲがうっとりと目を開くと、己の変貌にようやくその時が満ちたことを確信し、口元に笑みをうかべる。

    《《《光、あれ》》》

    力ある言葉は慈愛に満ち、世界に波及した。
    暗雲はすべて払われ、どこまでも続く大海原の蒼と、草原の緑。そして吹き舞う風花。
    ナカツクニが第二の誕生を迎えた時だった。