大神異見聞録・本文

神代の章・第七話「別離」

  • それから新月の夜。
    その夜になるとイザナミは黄泉の国から抜け出し、イザナギを執拗に襲うようになってきた。
    新月の夜はイザナギが本来の力を出せずにいるのを知ってのことだ。
    こうなってはもう国造りどころではない。
    再び国土は腐敗し、妖怪といった邪悪な存在が跋扈する大地になってしこうとしていた。
    イザナギは長い間思い悩んだ。
    何度か黄泉の国の入り口に足を運んだが、妻は日に日に怒りと恨みを募らせ「殺してやる」の一点張りで、つい先日まで仲睦まじく暮らしていたのが嘘のようだった。
    「蘇神…僕らはもう、元には戻れないんだろうか…」
    何度目かの説得の後、イザナギはふと呟いた。
    「ナカツクニは乱れ、荒れ果てようとしている…僕たちは…僕は、これからどうすればいいんだろう…」
    うなだれるイザナギに、蘇神もかける言葉がない。
    どんなに豊富な知識を持とうとも創世・国造りに関してはイザナギ・イザナミの二神が鍵を握っているのだ。
    そして幾度目かの新月の夜。
    イザナギとイザナミはタカマガハラと黄泉の国の境界・黄泉比良坂で対峙していた。
    「うふふふ…よく逃げ出さずにやってきたわね、ナギ。褒めてあげる…私の…妾の姿を見て逃げ出した腰抜けは一体どこに行ったのかしらね?」
    「…」
    イザナギは答えず、スッと手をかざす。
    その手の中に黄金の光が集まり、三種の神器の一つ・天叢雲剣が現れる。
    「相変わらず芸のない男。お前が操るのはたかだか3つの神器だが妾は違う。見よ!」
    両手を広げたイザナミの背後から、禍々しい黒い影がほとばしる。
    それはやがて八匹の大蛇を象り、イザナミに従うように傅き、目の前の獲物に不気味にごろごろと喉を鳴らした。
    「くふふ…あれから黄泉の国の支配者となった妾は、黄泉の国に眠っていたこの大蛇たちを従えることができた…今日こそ殺してやる…!」
    「…ナミ、そんなことをしたら僕たちの国はどうなる?」
    イザナギの言葉にイザナミの目が怒りにカッと燃えた。
    「国!?そんなものどうだっていい!!妾に恥をかかせておいてまだそんな世迷言を言うか!!」
    イザナミの魔法が炸裂した。
    それをひらりとかわし、イザナギは剣を振りかぶる。
    が、イザナミに当たることなく、あさっての虚空を斬る。
    「アハハハハ!一体どこを狙ってるの!?」
    イザナミは複雑な印をいくつも切り、次々にタカマガハラへと魔法を繰り出す。
    「壊れろ壊れろ!!こんな世界などすべて壊れていけ!!アーッハッハッハッハッハッハッ!!」
    すでに正気を失っている笑い声を聞きながら、なおもイザナギは剣を振りかぶる。
    魔法のいくつかは撃神と凍神によって防がれ、攻撃を受けた場所も蘇神によって修復されている。
    その様子に、イザナミはチッと舌打ちする。
    「…許せない…許せない…許せるものか、許してなるものか!!」
    イザナミの周囲にいくつもの魔法が花のように咲き乱れる。
    轟音とともに魔法が発動し、タカマガハラを襲う。
    「壊れろ壊れろ壊れろ!!壊れていけ!!妾を否定するものは妾も全て否定してやる!!」
    口元に涎を垂らしながら狂気に染まった女神はタカマガハラを攻撃し続けた。
    自身も傷を負いながら、イザナギは何度目かの剣を振りかぶった。
    「くははははは!なんて間抜けな様だ、イザナギ!お前は自分自身も、タカマガハラも守れずにそのザマだ!悔やむがいい、命乞いをしろ!」
    「…もう、終わりだよ。ナミ」
    「…何?」
    訝しむイザナミの背後からすっと影が落ちる。
    振り返ると、背後に巨大な白い岩山が出現していた。
    そこから黒い蔦のようなものが伸び、イザナミを首を、両手両足を捕らえた。
    「なっ!?」

    《これより死神イザナミを支配する
    束縛し正義の鎖で絡め取る
    穢れた魂を持つ悪神よ 
    我が名イザナギにおいて浄化する
    そして世界を再生させる 今度こそ美しい世界にするために
    それが我が願い 我が祷り 世界よ再生せよ》

    黒い蔦はさらに増え、イザナミの身体をがんじがらめにしてしまう。
    「くっ…、…!?」
    創語で対抗しようとしたイザナミだが、発声できない。
    「筆しらべ伍の舞・双極」
    筆神・極神の筆しらべが発動し、白い岩山は縦に割れイザナミを飲み込んでいく。
    イザナミの足元からは液体金属のような黒い手が幾つも伸び、イザナミの身体をがんじがらめに絡め取ってゆく。
    「くぅ…!離せ!離せぇぇええええ!!!」
    イザナギの詩は強固な鎖となり、イザナミを捕らえて離さない。

    完全に閉じられた岩扉の前で、イザナギはしばらく立ち尽くしていた。
    手が震え、足が震え。
    ガクリとその場に膝をつくイザナギ。
    その目からは悔恨の涙がとめどなく流れていた。
    「う…ぐ…うあぁああ…!」
    食いしばった歯の奥から嗚咽が漏れ、溢れた涙がぱたぱたと地面に落ちる。
    どれだけ泣こうと、どれだけ喚こうと愛しい妻は戻らない。
    別れを決めたのは自分なのだ。
    イザナミとの思い出が頭を巡り、苦く胸を締め付ける。
    初めての口付け。二人で謳ったいくつもの歌。重ねた肌の温かさ。新たな生命を喜んだ春の日差し。
    「ナミ…ナミ…!」
    泣き崩れるイザナギの影に、幾つもの涙が落ちた。
    と、その時。
    コォン…
    水琴窟のような音が響いた。
    うっすらと目を開けると、自分の影が蜃気楼のように揺らめいていた。
    「…これは…」
    揺らめき、波紋が広がる影に、ゆっくりと人の顔が浮かび上がってきた。
    これはやがてはっきりと輪郭を取り、男の顔を作り出す。
    荒涼とした世界に、まだ新たな神が生まれようとしている…!
    イザナギは意を決し、影に向かって手をかざした。

    《この世界を愛するこの想いよ 花風となり世界を駆けよ 世界を再生する 救済とはなんと喜ばしいことか 我が命は息吹となり世界を駆け 再び生命を紡ぎゆく 再生を歓喜せよ 不浄の月は天空の果てに消え 我が世界から抹消する》

    紡がれた創語により、場に神力が満ちる。
    ただの影だった存在が生命の息吹を吹き込まれ、新しい神が誕生する。
    影からゆっくりと姿を現したのは男神だった。
    緩くうねる黒髪がイザナミを思い起こさせ、イザナギは一瞬どきりとする。

    「君に名前を与えよう…真名と神名。二つは君を体現し、君そのものとなるだろう」

    《君を世界に一つの詩にしてイワナガへと届けよう
    魂の名は空亡 
    現世の名は月読命
    終焉からの始まりにして、天上を駆け舞う精霊の息吹奏でる理を紡ぐもの…叡智、あれ》

    うっすらと開いた男神の目は黄金色。
    イザナギよりやや高い目線をした男神ーツクヨミは最初の一呼吸を大きく吸った。
    次にイザナギは、まるで自分の心の臓を取り出すかのような仕草で両手を胸の前にかざす。
    金でも銀でもない幻想的な光が生まれ、やがて紅蓮の炎を纏った光の繭になる。
    両手で抱えるほどの大きさになった繭の中に、うっすらと胎児のように身を丸めた少女の姿が現れた。

    《君を世界に一つの詩にしてイワナガへと届けよう
    真の名は雷羅
    現世の名は天照大御神
    浄化の雷を抱く修羅にして、原初の太陽なる慈しみの姫…光、あれ》

    繭がほどけ、中で眠っていた少女がツクヨミの腕に抱かれる。
    「名を呼んであげなさい…目を覚ますだろう」
    イザナギに言われ、ツクヨミは頷いた。
    「…アマテラス…起きてごらん、アマテラス」
    呼ばれ、少女はうっとりと紅玉の目を開く。
    星を散りばめたような大きな真紅の瞳。光の加減で銀紫に見える純白の髪がゆるりと舞う。
    最後にイザナギは右の人差し指の爪で左の手首をスッと切る。
    真紅の玉が浮かび上がり、手首を伝い地面へと落ちてゆく。
    イザナギの体液を吸って赤く染まってゆく地面。

    《君を世界に一つの詩にしてイワナガへと届けよう
    真の名は魂響
    現世の名は須佐乃袁尊
    紅き血滾る魂の円環織り成すものにして、荒ぶる御魂抱く戦神…力、あれ》

    創語の祝福を受け地面が盛り上がり、溶岩が噴出した。
    弾ける溶岩の中に人影が浮かびあがり、イザナギはその人影を抱き寄せた。
    溶岩の中から現れたのはアマテラスよりもさらに年下の少年だった。
    「アマテラス。名前を呼んでおあげ」
    頷き、アマテラスは弟となるだろう少年の名をそっと呼んでみる。
    「…スサノオ?」
    呼んでみたが少年ースサノヲは目覚めない。
    慌ててツクヨミの腕から飛び降りそっと頬に手を伸ばしてアマテラスはハッとした。
    息をしていないー。
    アマテラスは意を決するとスサノヲの顔を両手で包み込み、勢いよく息を吸い込むと、自分の唇をスサノヲの唇に押し付けた。
    それを何度が繰り返すと、ようやく金色の髪の少年はゆっくりと目を開く。
    その目はアマテラスと同じ真紅の瞳だった。

    《空 海 風よ 再生を歓喜せよ
    天 地 人よ 解放を歓喜せよ
    焔 E 魂よ 始まりを歓喜せよ》

    さらにイザナギは創語を紡ぐ。
    イザナギの足元から光が溢れ、やがてイザナギ自身を包みこみ光の柱が起立する。
    光の柱からイザナギの姿が消えたかと思うと真紅の注連縄が飛び出し、イザナミを封印した岩山に巻き付く。
    完全に岩山を封印した注連縄はイザナギ自身の肉体で、赤い封蝋は許された人物しか開けれない遺伝子の塩基鎖錠となった。
    さらに岩山は不可思議な力でその巨体を浮かびあがらせ、光の球体になって天空の月へと姿を消した。
    (これで僕の役目は終わりだ…後のことはお前たち三貴子に任せるとしよう…)
    精神体となったイザナギの声があたりに響く。
    アマテラスを右手に抱き、左手にスサノヲの手を握ったツクヨミが振り返る。
    そこにイザナギの姿はなく、か弱く輝く光の玉が浮かんでいた。
    その光の玉から三種の神器が分離し、ツクヨミには八尺瓊勾玉が、アマテラスには八咫鏡が、スサノヲには天叢雲剣が吸い込まれていった。
    (祝福を…タカマガハラとナカツクニに永久の幸いあれ!)
    その言葉を残し、イザナギは神世へと去っていった。
    かつての尊神・アメノミナカヌシノカミがそうしたように。

    こうして創世二神による国土創造の共同作業は終わりを告げ、次世代である三貴子によるナカツクニ統治への世が始まるのであった。