大神異見聞録・本文

神代の章・第陸話「黄泉の国」

  • 常春のタカマガハラに喜びの鳥の声が響き渡る。
    イザナギと結ばれたイザナミが無事懐妊したのだ。
    日に日に成長していくお腹の子に、毎日のように天神族たちが祝福の言葉をかけてきた。
    妊娠や出産という概念がなく、神樹イワナガの光から生まれてくる天神族たちには、
    タカマガハラきっての一大事だ。
    もちろんイザナミ自身も初めての経験だ。
    最初は悪阻がひどかったものだが、半年もすぎると食欲も旺盛で元気そのものだった。
    「随分大きくなりましたが、適度な運動はされたほうがお腹の子にもいいようですよ。
    ただしご無理はなさらないように」
    知識の豊富な蘇神の提言に、イザナミは大きなお腹を抱えて毎日神殿の周りを歩いて回った。
    その横をイザナギが寄り添って歩く。仲睦まじいことこの上ない二人だった。
    あっという間に九ヶ月を過ぎた大きなお腹は、華奢なイザナミに別の生物が乗りかかっているようなアンバランスさだった。
    「重たくない?ナミ」
    「そりゃあ重たいわよ…だってここに生命が一つ、宿っているのよ?」
    「そう、だよね…うん、そうだよな…」
    父になる喜びと戸惑いを隠せないイザナギに、イザナミはただ優しく微笑んでみせる。
    「…あっ」
    「何?」
    「…今、蹴った…」
    「本当?ど、どこ?」
    「ここよ…触って」
    おっかなびっくりのイザナギの手を導き、お腹の真ん中よりやや右上へと乗せる。
    「あっ」
    「ね?」
    大きなお腹が、時々びくりと震える。
    座り、手だけでなく顔を近づけて生命の脈動を確かめる。
    規則正しい母体の鼓動とは別に、もう一つ、小さな心音が聞こえるような気がした。
    「どんな子が生まれてくるんだろう…女の子かな、男の子かな?」
    「うふふ、どっらかしら…尊神も、こんな気持ちでこの世界を創られたのかしらね…」
    「かもしれないね…人間たちは、こうやって営みを紡ぎ、未来へと繋いでいくんでね…」
    嬉しいような、誇らしいような。
    言葉にできない、うずうずする気持ち。
    一抹の不安がないといえば嘘になるが、希望や喜びは倍以上だった。
    子を宿さなければわからない、新たな生命への果てしない愛。
    ああ、この光輝ける世界に、一体どんな子が生まれてくるんだろう…!
    人間たちはこうやって生命の営みを続けて繁栄しているのか…。
    安定した下界は「ナカツクニ」と名づけられ、タカマガハラの繁栄と正比例して発展の道を歩んでいた。
    黄金の穂が実り、人間たちからの供物や感謝の念が一年で一番多く感じられる季節に出産できるのは
    非常に喜ばしいことといえる。
    ほぅっと一つ小さく息を吐き、イザナミは空を仰ぐ。
    「喉が渇いたろう?何か果物を取ってくるよ」
    「ありがとう」
    イザナギは少し急ぎ足で神殿へと帰っていく。
    その後ろ姿をいつまでも見つけながら、イザナミは幸せな気持ちに包まれていた。
    優しい日差しが眠気を誘い、イザナミはその場に横になろうとした。
    その時。
    ふと呼ばれたような気がして振り向いた。
    だがそこには何者の姿もなく、さわさわと風が草木を揺らしただけだった。
    と、正面の物影がゆらりと揺らいだような気がした。
    気のせいかと思ったが、確かに影が動いた。
    それはゆっくりと持ち上がり、闇色の外套を被った何者かへと姿を変えた。
    外套は目深く被られ、男なのか女なのか分からない。
    ただ酷くなで肩で、そこそこの長身ではあることが分かる。
    「…誰?」
    やや緊張した声でイザナミは訊ねた。すると外套が揺れ、小さく屈んだように見えた。
    「イザナミ神よ。国造りの大業、お見事でした。私は黄泉の神々の使いのものでございます。」
    「黄泉の…?」
    「はい。ナカツクニの理が磐石なものとなり、ようやく黄泉の国も理の一部として平定いたしました」
    「そう…」
    悪意の類が感じられず、イザナミはほっと胸をなでおろした。
    「つきましては創世二神に、黄泉の国に育った神樹の実を献上したく存じます」
    「神樹の実?」
    「はい。黄泉の国の理が平定したのと同時に芽生えた神樹の実です。」
    そう言い黄泉からの使者は小さな包みを取り出してみせた。
    外套と同じ闇色の布に包まれていたのは、球状をした、まるで宝石のような鮮やかな紅色をした果実だった。
    「まぁ…なんて綺麗な色…」
    「イザナミ神よ。畏れ多いのですが、私のような者からこれ以上清き御身に近づくことはまかりなりません。
    されどこの果実は献上いたします故、どうかお納めください」
    言われ、イザナミは少し戸惑い考えたが、黄泉の国の使者は動く気配はない。
    イザナミは重たい腹を持ち上げ、黄泉の国の使者へと近づいた。
    「どうぞ、お納めください」
    差し出された紅玉のような果実の甘酸っぱい香りに、思わずイザナミの喉がごくりと鳴った。
    実は酷く喉が渇いていたのだ。それも、この黄泉の国の使者を名乗る者と出逢ってからは喉が干からびるような思いだ。
    「どうぞお召し上がりください。その為のものです」
    「でも…」
    夫のいないところで一人で口にしてしまうのは少し躊躇われた。
    二つあるのだからこのまま持ち帰り、二人で一緒に食べればいい。
    だが。
    「お腹のお子にも大変滋養のよいものです。どうぞご賞味あれ」
    甘い誘惑に勝てず、イザナミは果実の一つの皮をむいた。
    皮は少し硬かったが片手でなんとか剥くことができた。
    とろけるような甘い香りがあたりに充満した。甘い香りを放つ果実は、粒状のものがいくつもたわわに集まり不思議な形状をしていた。
    「いただきます…」
    一口含むと、じわりと果汁が滲み出し喉を潤した。イザナミははしたないと思いながらも、夢中になってその果実にかぶりついた。
    気がついたらぺろりと丸々一つ平らげてしまっていた。
    と思ったとたん、イザナミの足ががくんと崩れた。
    そして遠のく意識。
    その様子を、黄泉の国の者だけが見つめていた。
    「ようこそイザナミ神。母にして美しき我らが女神よ」
    一陣の風が駆け抜け、最初から何もなかったかのようにさわさわと草木を揺らした。
    「ナミ、ちょうど黄金桃があってね…」
    両手いっぱいに黄金桃を抱えたイザナギが駆けつけたとき、そこにはむせ返るような甘い香りだけが残されていた。
    「…ナミ?」
    呼んでも返事がない。
    どこか木陰にでも移動したのだろうか?
    「ナミ」
    辺りを見回すがあの身重でそうそう動けるものではない。
    イザナギは天神族たちに協力してもらい、タカマガハラ全土をくまなく探させた。
    だがもうタカマガハラにはイザナミの影すら残っていなかった。
    イザナミが黄泉の国に落ちたのが判明したのはそこから七日七晩たった夜だった。
    妻を失った悲しみにイザナギだけでなく、タカマガハラ中の生命がさらに七日七晩泣き暮れた。
    泣き疲れたのか、いつの間にか眠っていたイザナギだが、目覚めと共に黄泉の国へ下りる事を決意する。
    「穢れ」がつくことを恐れた御三家筆頭たちの説得も聞かず、イザナギは松明を片手に黄泉の国へと下りていった。
    恐れる心を励ますために、そして妻を想い、詩を口ずさみながら深く暗い黄泉への道を降りてゆく。
    黄泉の国への道程はどこか肌寒く、そして辺りは薄暗く、松明なしでは歩けない有り様だった。
    そして黄泉の国の入り口である巨大な岩山の前にやってくると、イザナギは詩で黄泉の神々に呼びかけた。


    《黄泉の神々よ どうか僕の妻を帰して欲しい
    この世にたった一人の僕の半神である彼女を
    黄泉の神々よ どうかこの願いを聞き届けて欲しい
    彼女は僕に この世界に大切な人だから
    ただ一度の奇跡を起こして欲しい》

    だがこの詩に応えたのは黄泉の神々ではなかった。
    「…ナギ?」
    「ナミ!僕だ、イザナギだ!迎えに来たんだ、一緒に帰ろう!」
    「だめ…帰れない。ああ、ナギ。ごめんなさい…」
    「ナミ?君は無事なのかい…?お腹の子どもは…!?」
    話を聞けば、イザナミは黄泉の国の食べ物を口にしてしまい、黄泉の国の住人になってしまったらしく、
    タカマガハラに戻るのは無理だという。
    「そんな…君がいない世界に、何の意味があるっていうんだ…君と、子供と一緒にまた暮らそうよ」
    「ええ…ええ、そうよね、ナギ…。私たち二人がいてこその世界…なんとか黄泉の神々を説得してみるわ」
    「本当かい?」
    > 「ええ…でも一つだけお願い。私が戻ってくるまで、決してこちら側に入ってきては駄目…
    黄泉の国の穢れが貴方についてしまうから…」
    「分かった。君が帰ってくるまで待つよ」
    そう約束を取り交わし、イザナギは岩山の前でイザナミの帰りを待つことにした。
    だが待てど暮らせど、一向にイザナミが帰ってくる様子はない。
    一刻一刻と過ぎる時間がとてもじれったく感じる。
    「筆しらべ四の舞・輝跡!」
    イザナギが持つ神力・筆しらべが発動し、従属神である筆神・導神の赤い光が揺らめきながら奥へと進んでゆく。
    『私が戻ってくるまで、決してこちら側に入ってきては駄目よ』
    妻の言葉が脳裏をよぎるが、イザナギは再び松明を片手に導きの光を追い進んでいった。
    中はさらに暗くなっており、時折生温かい風がぬるりと肌をなでた。
    ふと、ツンと鼻の奥を突く嫌な臭いがした。
    そして視界の端に何か揺らめいたような気がした。
    「…ナミ?」
    その奥から、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
    まさか…生まれたのだろうか?
    赤ん坊の泣き声の重なって赤子をあやす女の声が聞こえる。イザナミだ。
    松明を掲げ、目の前を確認しようとイザナギは目をこらす。
    その前に姿を現したのは、異形の者だった。
    かろうじて上半身だけまろやかな女の丸みを残した歪な身体は腕や足、あちこちから蛇の頭が生えていた。
    そして長い黒い髪。
    それが唯一イザナミであることを示すものだった。
    「ナ、ミ…!?」
    「…ナギ…?」
    ぎょろりと動いた目は、すでに生前の美しい黒曜石の色をしていなかった。
    微笑んだのだろう。三日月型の唇から牙がむき出し、うっとりと目が細くなる。
    「見て…さっき生まれたのよ。私と貴方の子供…可愛いでしょう?」
    と差し出された布に包まれた物体だが、イザナギにはそれがどうしても「可愛い」とは思えなかった。
    眼球があるはずべき場所には二つの窪みがあるだけ。
    身体は人間なのか魚類なのか、手に水かきと尻尾がついたままの歪な姿だった。
    「さぁ…貴方も抱いてあげて」
    「うわぁっ!」
    差し出された赤ん坊を反射的に払い捨ててしまった。
    一瞬何が起こったのかわからなかったイザナミだが、青白い肌をさらに青白くして戦慄いた。
    「なっ…何てことするのぉぉおおおおおお!!!」
    脱兎の勢いで赤子を拾い上げ「よしよし」とあやしてやる。
    払い落としたというのに大して泣きもしない赤子をあやす、幽鬼のような妻。
    この異常な風景にイザナギは一歩後ずさった。
    「逃げるの?」
    イザナギの様子をイザナミは見逃さなかった。
    「ナミ、これは…」
    「こないでと言ったのに…こんな姿を見られたくなかったから、来るなと言ったのに」
    言葉は怒りに満ちているが仕草や表情は優雅そのものだった。
    伸ばされた青白い指先が、イザナギの唇から胸を辿る。
    「約束を破ったんだから…殺されても文句言えないわよねぇええ…?」
    にぃっと微笑んだ顔がこれまでになく醜悪に歪んでいた。
    と同時にイザナギの背筋に戦慄が走る。

    《湧き上がるこの感情はなに?
    今までに感じたことのない 噴き出すような禍々しい感情
    許 さ な い…!!》

    「よせ、ナミ!!」
    イザナギの制止の声より早くイザナミの魔法が完成した。
    カマイタチが発生し、烈風となってイザナギを襲う。なおもイザナミは謳い続ける。

    《冷徹なる刃 すべてを切り裂け
    灼熱の鉄槌 すべてを押し砕け
    この身が不浄であるならば すべてを食らいつくそう
    憤怒の炎 色欲の寝台 暴食の食卓 強欲の猛獣 怠惰の鎖 嫉妬の茨鞭 傲慢の鈍冠
      この身に宿りし七つの大罪 すべてを飲み込み私に還りなさい》

    闇の刃が風となって襲い掛かってくる。その刃を八咫鏡が巨大化し、イザナギの身を守る。
    そしていつの間にかその右手には天叢雲剣と左手には八尺瓊勾玉が握られていた。
    「…そう。そういうことなの…そうなのね…」
    目を細め顔を歪ませるイザナミ。その背後で鳥肌が立つような冷気ー怨念が爆発した。

    《黄泉の神々よ!わが願いに応えよ!私は黄泉の死神になる》

    闇色の刃が灼熱の炎をまとってイザナギに襲い掛かる。
    「筆しらべ・弐の舞闘『吹雪』!」
    高速で飛び交う炎の刃を凍らせ応戦する。
    チッと舌打ちし、美しい顔を憎しみに歪ませるイザナミ。
    「…殺してやる!殺してやるわ!!私に恥をかかせた上、可愛いあの子まで殺そうとした…!!!」
    「違う…待って、ナミ!」
    聞く耳も持たず、イザナミは詩を紡ぎ魔法を発動させる。
    爆発し、轟音に包まれる中をイザナギは必死に走った。
    イザナミの姿が信じられず、恐ろしくなって逃げた。
    「待てぇぇぇぇええええ!!」
    しわがれた地に響くような声で追いかけてきたイザナミは執拗に攻撃してきた。
    イザナギはようやく黄泉の国の入り口の岩山にたどりつき、岩山を背に一息ついた。
    黄泉の住人になったのなら、そう簡単には出てこれないはずだ。
    その岩山の後ろから、何かでカリカリと引っかくような音が聞こえてきた。
    「許さない…許さない…許さない…!」
    「ひ…!」
    囁かれる呪詛の言葉にイザナギはその場にいられなくなり、タカマガハラへと逃げ戻っていってしまったのだった。