大神異見聞録・本文

神代の章・第四話「陰陽の理〜謳う世界」

  • アマノカグヤマの麓。
    深緑色した山肌の一部分、創世ニ神にしか見えない不可思議な水晶の岩場がある。
    どこをどうして行けばそこに辿りつくか。
    誰に教えられたわけでもなく、イザナミははやる動悸を抑えながらするりと水晶の岩場に身を滑らせる。
    岩場に入ると一瞬の闇ののち、柔らかい足の感触とともに虹色の森が飛び込んでくる。
    鬱蒼と茂る広大な森が、アマノカグヤマの内部には広がっていた。
    もの言わぬ巨人のようにそびえ立つ木々。
    木々はその間、ただの一度も、どんなものにも脅かされることなく、静謐に、
    悠然とそこに佇み、命の営みを見守ってきた。
    隙間なく葉を茂らせたその枝は遥か頭上でもつれあい、絡み合い、
    どこまでもひと繋がりの新緑の天蓋を成す。
    その遠い屋根を貫いてくることができるのはこの森の主・イワナガの光のみ。
    風も雨も雪も、弱め遮られ、ごく微細な霧状になってでしかここに入り込むことは許されなかった。
    所々に倒れ老朽した大木や枝には、シダやコケ類がびっしりと生え、すでに元色を留めていない。
    否、この森のどこもかしこも透明な虹色のような、黄金のような。
    どこか懐かしさを彷彿とさせる色彩で彩られている。
    根もまた地中深い暗がりをどこまでもどこまでも伸びている。
    根は水脈を捉えね大地から豊かな滋味の恵みを受けながら、堅固な紐帯となって、
    この秘められた森のすべてを守る役目を果たしていた。
    苔類が覆う岩肌をモノトーンの美貌が走る。
    流れるような黒の髪に、しとやかに瞬く神秘的な眼差し。
    わずかに肌に真珠色の汗を滲ませて、イザナミは走った。
    甘い香りがイザナミに押し寄せ、さやさやと植物が葉ずれの音楽を奏でた。
    まるでアマノカグヤマを彫りぬいたかというような空間がそこには広がっていた。
    果てしなく高い頂上付近は岩肌がドーム状に囲んである。そこを突き抜け、のびる一本の大樹がある。イワナガだ。
    芝生を、落ち葉を、水溜りを蹴ってイザナミは走った。
    燦々と煌くイワナガの光の霧が、優しくイザナミを照らす。
    これまでの疲れが嘘のように抜け、自然と足が速くなる。
    走り、たどりついたイワナガの根元に、イザナミは抱きついた。
    「きたわ、イワナガ…!おねがい、たすけて…わたしたちのくにを…あのだいちをどうかたすけて…」
    子供のように泣きじゃくるイザナミに応えるように、イワナガの枝がざわめいた。
    「…え…?ちがうの…?たすけるのは…わ、たし…?」
    またひとつ、イワナガがざわめいた。
    イザナミは少しの間じっと何かを考えているようだったがゆっくりと立ち上がり、イワナガを見つめた。
    「…わたし、うたはイワナガがあたえてくれるものだとばかりおもっていた…でも、ちがうのね?
    うたはあたえられるものではない…つくるものではない…」
    言いながら、トン、とイザナミは自分の胸を指差した。
    「ここから、うまれるもの…なのね」
    ふわりと、光の霧が舞った。まるでイワナガが微笑んだように思え、イザナミを優しく微笑んだ。
    (…いしきをしゅうちゅうさせて…そう、イワナガのこえをきいたときのように)
    (わたしたちのせかいをいやしたい…ナギのこころをいやしてあげたい)
    (そしてどうかもういちど…!)
    そして、何かを祈るかのように胸の前で両手を組んだ。

    《感じる…これは世界の痛み?
    感じる…これは貴方の心の痛み?
    なんて深く辛い 貫くような痛みなの
    この痛みを できることなら私がそっと拭い去ってあげたい
    そう…今 この胸に湧き上がるこの愛の詩で!》

    コォン、と水琴窟のような音が響いた。
    イザナミの足元から柔らかい、闇色の光が波のように広がった。
    ゆるゆると広がり、世界を安らぎの闇色に染めてゆく。
    それは決して邪悪なものではなく、見たものの心に安らぎをもたらす、癒しの闇だった。

    《この詩をイワナガに捧げ相互変換して大地へと注ぐ祷りの闇とならんことを…
    大切な貴方を守りたい 愛しい世界を守りたい
    だから心を込めて謳おう
    闇よ この世界に安寧を ひと時の安らぎをこの世界に与えたまえ》

    イザナミの詩に呼応し、イワナガがざわめく。
    詩はイワナガを通してタカマガハラに、まだ名もなき下界の大地に闇になり、雨になり、大気になり優しく降り注ぐ。
    タカマガハラに夜が訪れる。
    その中でイワナガとアマノカグヤマだけが虹色の光を放ち、その光で周囲を幻想的にを包む。
    その様子をイザナギは天神族たちと見守っていたが、夜の訪れに、誰からともなく、天神族たちはそれぞれの住処へ帰っていった。
    残っていたイザナギと御三家筆頭たちもひどく穏やかな気持ちになり、その場に座りみ、魅せられたようにアマノカグヤマを見つめ、
    イザナミの詩に耳を傾けていた。
    「尊い命よ、安らかに 尊い命よ 安らかに
    ここへおいで 何も怖がらないで
    怖がらないで すべては私と一緒にあるのだから
    私はただ貴方を包む さぁ 私の中に還りなさい…」
    噴火を繰り返していた活火山が、天の雨水浴びてやがて鎮まってゆく。
    流れ出した溶岩は新たな大地を形成し、その下には新しい生命体系が根付き、闇の中ひっそりと眠りについた。
    (ナギ…ナギ…)
    (聴こえる?私の詩が)
    (貴方も謳って…私と一緒に謳って!)
    「…ナミ?」
    脳裏に響いた妻の声に、イザナギは戸惑いながら立ち上がった。
    呼んでいる。
    一緒に謳って欲しいと呼んでいる。
    (私の詩で眠っている生命を、貴方の詩で起こしてあげて)
    イザナギは謳おうとして一瞬躊躇った。また地上になんらかの悪影響をもたらすのではないだろうか?
    そして何より尊神の制約がある。今回のゲームに勝ったのはイザナミなのだ。
    (大丈夫。今度は私がいるから。怖がらないで)
    その思念とともにふと柔らかい風に抱かれたような気がした。
    白く細い愛しい人の腕が、背中から抱きしめてくれたような優しい風だった。
    その風を一身に感じ、意識を解放する。
    空へ、大地へ。
    恐れを解放した心に、その詩は雪のように深々と舞い降りてきた。
    《どうか恐れないで欲しい 滅びは去り安らかに眠り給え
    どうか聴いて欲しい この聖なる祷りと願いを
    大いなる原初の愛よ どうかこの世界に成長と安らぎを》

    創世二神の声が混ざり合い、一つの詩を作り出す。
    「大いなる聖なる光 大いなる聖なる闇
    そしてすべてを包む原初の愛よ
    混じり絡まり 哀しみを喜びを変え 世界に満ちたまえ
    織り上げるは魂の詩 響け そして満ち溢れよ」

    弾けたように大地に光が溢れる。
    溶岩の下に眠っていた植物の根が、硬く重い土を押し上げゆっくりと身を起こす。
    鳥たちが翼を広げ、天へと羽ばたいていく。
    タカマガハラでは、イワナガがかつてないほどの輝きに溢れていた。
    その中で創世二神は一心に謳った。世界を想い、生命を憂いて。
    想いのままに謳った。
    天神族のだれかがその旋律を口ずさんだ。
    そしてその隣にいただれかも、また同じように詩を口ずさんだ。
    それぞれに想いの言葉を口ずさむと、不思議と周囲の者たちの想いが共感できた。
    まるでもう一人の自分がそこにいるような感覚で、偶然隣り合わせにいた者たちが意志を通わせていた。
    そしてみんなで謳った。
    彼らに創語を理解することはできなかったし、例え理解できたとしてもその力を扱うことなどできはしないが、
    それでも謳った。
    創語でも神代語でもない、彼らの言葉で謳った。
    新しく生まれてくる愛しい生命のために。かけがえのない大切な大地の為に。
    誰もがただ一つの思いを抱いて謳っていた。

    《この世界を未来に繋げたい 愛しい子らに伝えたい
    私たちの魂を詩に織り上げよう そしてどうか届けて
    今一度再生せよ 碧緑の大地》

    満天の夜に、満月が昇る。
    昼間輝くことのない月は、太陽の光を一身に浴びて、かつ、柔らかで優しい光で地上を照らした。
    神々の創りし大地の陰陽-原初のナカツクニの理が、こうして完成したのだった。
    と同時に地底に生まれたものもあった。
    黄泉の国ととそこに住まう神々だ。
    黄泉の国は死者の国。
    こうして生命の循環ができ、生者はナカツクニへ、死者は黄泉の国へやってくる陰陽の理が始まったのであった。