大神異見聞録・本文

神代の章・第参話「遊戯」

  • それからというもの。
    タカマガハラは日に日にめまぐるしく成長をしていった。
    大地には植物が溢れ森を作り、平原には動物だちが群れをなしそれぞれのコロニーを作り始めていた。
    やがて、アマノカグヤマから溢れる光から、頭に翼をもつ有翼人が現れた。
    彼らはイザナミやイザナギのような神の力を有してはいなかったが、非常に人懐っこい性格をしており、
    イザナギたちの手伝いがしたいという。
    こればかりはイザナギたちもどうとできるものではないので少し困ったが、
    ならばせめて二人の身の回りのことをさせてほしいと有翼人たちは申し出た。
    有翼人たちはまず尊い二人の神の為に住居を作った。
    決して大きくはないけれど、ニ柱の神と有翼人たちが住むには十分だった。
    そして有翼人たちは尊い二人の神の為に衣服をこしらえた。
    あまりに尊い二人の神の裸体を直視するのは畏れ多いと、それぞれに似合いの衣服を捧げた。
    イザナギは白を貴重とした簡素な造りの衣装だったが、均整の取れた見事な肉体を包み、
    なおもその美しさが損なわれることはなく、女性の有翼人たちからはうっとりとした溜め息が零れた。
    イザナミは黒を貴重とした同じく簡素な造りの衣装だったが、こちらも彼女のほっそりとしていながら
    まるで成熟した果実のようなまろやかな肢体を、そのまま優しく包み込んでいた。
    イザナギとイザナミはこの気さくで優しい有翼人たちに『天神族』という名を与えた。
    そしてその頃から、イザナギとイザナミは『ゲーム』を始めるようになった。
    これは尊神から与えられていた情報で、タカマガハラがある程度発展したら、二人はそれぞれの力を使い、
    どちらが最後ので立っていられるか競うようになっていた。
    そうすることで陽と陰の力を相互作用させて世界を安定化させるのだ。
    「ねぇ、ナギ…わたし、あなたをきずつけるのはこわいわ」
    「大丈夫だよ。どちらが倒れるまでかくれんぼでもすればいいんだ。
    確かに体力では僕のほうが君より上だけど、魔力は君のほうが上だ。それを利用すればいいんだよ」
    「…そう。わかったわ」
    最初はイザナギが逃げることになった。
    獣のような足の速さに、イザナミは到底追いつくことなどはできなかったが、彼女は植物の精霊の力を
    駆使してイザナギの足を絡め取ろうと、または妨害しようとする。
    そんなやり取りを一週間ほど続けた頃、先に膝を付いたのはイザナミのほうだった。
    「はぁ…はぁ…はぁ…」
    「はーっ…はーっ…」
    そこへ息切れしながらイザナギが戻ってくる。
    汗まみれになり、泥んこまみれになったお互いの顔を見合わせプッと噴出すと、二人で大笑いした。
    「こんかいは、あなたのかち、ね…!」
    「そうだね…はぁっ…ははははっ…!!」
    そんな二人に天神族の女たちが水を汲んでくる。それを口につけるのではなく、頭から豪快に被る創世二神。
    天神族も一緒になって大笑いした。
    「…明日、アマノカグヤマに入って、イワナガと一緒に謳うよ。詩は彼女が授けてくれるだろう」
    「ええ、そうね。あなたのうた、たのしみにしているわ」

    翌日。

    イザナギはイワナガの袂にいた。
    虹色の淡い光を放つ大樹に子供のように抱きつく。
    「謳おう、イワナガ…この世界の為に」
    イザナギの言葉に呼応するように葉がざわめき、枝が揺れ、光が溢れた。
    胸の奥が自然と熱くなり、イザナギの唇から旋律が零れた。

    《この詩をイワナガに捧げ、相互変換して大地へと注ぐ祷りの光とならんことを…
    大地よ、大地よ…魂あるすべてのものよ
    ここへおいで 何も怖がらないで
    解放する それはきっと嬉しいこと
    すべてを脱ぎ捨てて 魂を解き放て
    その息吹が大地に満ち 繋がり重ね 共に謳おう
    まだ見ぬ未来の生命の種が根付き 栄えるように》

    イザナギの詩を受け取り、イワナガの輝きが増す。
    まるでイワナガそのものが謳っているかのように、創語で紡がれた詩が光に、風に、大気になる。
    「イザナミさま!」
    「ええ」
    タカマガハラでは、その様子を天神族とイザナミが見守っていた。
    千年雪のように輝くアマノカグヤマから波紋のように虹色の光が波及していくのが分かる。
    その光が自分たちの身体を通り抜け、大地に浸透していく様子も。
    「きれい…なんてうつくしいうたなの…」
    その言葉に妬みや嫉みはなかった。
    純粋すぎるほど素直にイザナミの唇から零れた言葉だった。

    《天に満ちよ 大地に降り注げ
    眠る種子に大地の恵みを与えん
    降り注げ光よ 大地をあまねく照らし
      生あるものに希望と繁栄を与えたまえ
    生命よ 世界よ 共に謳おう 今こそ僕は詩になる》

    謳い終わり、イザナギはイワナガの根元でゆっくりと横たわっていた。
    冷たくも優しい樹木の感触が心地いい。
    ふうっと吐き出した息が、ダイヤモンドダストのようにきらきらと輝いている。
    イワナガから降り注ぐ光の霧が、ふとイザナギの胸元に集まった。
    「…?」
    訝しげに首をかしげたイザナギの目の前で光は緩く回転し、宙に浮いたかと思うと、
    赤・青・黄色の三色に分かれて何処へと飛び去っていった。
    「…今のは…なんだい、イワナガ?」
    イワナガは応えない。
    ただただ、優しい光を湛え優々とそこに佇むだけだった。
    新たな予感に、イザナギはゆっくりとアマノカグヤマを後にした。
    イザナミたちの元に戻り何刻か過ぎた頃、来訪者が訪れた。
    一人は若い辰族の青年。
    一人は壮年の寅族の戦士。
    一人は丑族の女傑。
    三人はイザナギの元へ恭しく跪き、そしてそれぞれの右手を差し出す。
    青年の右手には緋い焔、戦士の手には黄色い雷、女傑の手には蒼い冷気が宿っていた。
    「何処よりか飛来した光に導かれやって参りました。その光、お返しいたします」
    三人を代表して辰族の青年がそう告げた。
    イザナギが手を伸ばすと、焔は鏡に、雷は剣に、冷気は勾玉へと姿を変えた。
    拝礼をして立ち去ろうとした三人をイザナギは呼び止めた。
    「三種が神器に宿った光が君たちの元を訪れたのには意味があるのだろう。
    そして君たちには神器の力の片鱗が宿った。僕たちと一緒に国造りを手伝ってはくれないだろうか」
    イザナギの申し出に是も非もなく、三神は従った。
    辰族の青年には炎によって神と合一する錬金術を以って再生を司る「蘇」を、寅族の戦士には閃光と
    轟音にて大気を振動させ大神の威光を知らしめる「撃」を、丑族の女傑にはあらゆる元素を凍結させる
    「凍」の神名を与えた。
    後に「タカマガハラ御三家」と呼ばれる三大血族の筆頭と、「筆神」と呼ばれる大神の従属神の誕生である。
    筆神の出現により、動物の中に神格化する種族が現れた。
    子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・亥・猫の十二族で、蘇神率いる「緋炎」、撃神率いる「黄霊」、
    凍神率いる「蒼氷」の三種族へと別れ、神族、神霊、精霊たちへと発展していった。
    イザナギとイザナミの「ゲーム」は幾度か続き、イザナミの勝利が続いたある日、それは起こった。
    「なんてことだ…!」
    タカマガハラの眼下の様子に、イザナギは頭を抱えた。
    ようやく形が整い、安定しかけた国土には、タカマガハラと同じように緑が潤い、生命の息吹が芽生え始めていた。
    その矢先、いくつかの火山が立て続けに噴火したのだ。
    「…僕のせいだ…」
    「ゲーム」に勝ち続け、必要以上に陽の力が作用し続けてしまったため地脈が活性化し、今回の大噴火を招いたのだ。
    「ナギのせいじゃないわ…わたしがもっとしっかりしていれば…」
    「このままじゃ…せっかく安定した大地が…生命が死んでしまう…!」
    がっくりと膝をつくイザナギの背中を、イザナミは優しく撫でた。
    眼下の惨劇を憂いたが、きっと視線をあげるとイザナギの耳元で囁いた。
    「…はじめましょう、ナギ。こんどはかならず、わたしがあなたをつかまえるから。
    まもりましょう、わたしたちのだいちを」
    悲壮に暮れたイザナギだったが、イザナミの言葉にいくらか気力を取り戻し、立ち上がった。
    「…わかった…やろう、ナミ。僕たちにできる精一杯のことを」
    イザナギは駆けた。タカマガハラの大地を矢のように速くどこまでも。
    イザナミはそれを追いかける。植物たちの力を借りて追いかけ、または行く手を遮る。
    どちらも決して手を抜くことはなかった。
    ここでわざと勝ったり負けたりするようなことがあれば、それは国造りへの、生命への冒涜になる。
    だからどちらも手を抜かない。全力で相手から逃げ、追いかける。
    天神族や神族たちもハラハラしながら事の行方を見守っていた。
    太陽と月が入れ替わり、一週間ほど過ぎた頃。
    イザナギは森の中をややスロースペースで走っていた。
    そろそろ限界がきたのだ。
    後ろを振り返ろうとしたが、振り返った瞬間どこからともなく蔦が伸びてきて自分を捕らえるか分からない。
    だがそんな気配はなかった。
    「…?」
    訝しげに足を止めたイザナギだが、次の瞬間、足元が崩れ身体が大きく傾いた。
    「なっ…!」
    足元に大きな穴が開き、イザナギを飲み込んでいた。
    そしそて上から、下からと蔦が伸び、イザナギの身体をがんじがらめに縛る。
    「くっ…」
    抜け出そうとしても体力の限界なのか、うまく手足に力が入らない。
    イザナギは観念したように大きく息を吐いた。
    「…参った。僕の負けだよ」
    その言葉を待っていたかのように、蔦が人型を造り出した。
    それはやがてイザナミへと姿を変える。
    呼吸も乱れ、泥まみれのイザナギだったが、イザナミも肩で息をし憔悴しているようだった。
    美しい烏の濡羽色の髪は暴風雨に晒されたように乱れ、白く美しい肌は青白く震えていた。
    イザナミががっくりと膝をつくと、イザナギを捕らえていた蔦が優しくほどかれ、イザナギはよろよろと地面へと降り立った。
    「…立てるかい、ナミ?」
    「うん、だいじょうぶ…はやく…はやく、イワナガのところへ…」
    「少し休んだほうがいい」
    「だめ…はやくしないと…わたしたちのくにが…はやく…うたわなきゃ…」
    黒曜石の瞳いっぱいに涙を溜めるイザナミに、イザナギは何も言えなくなってしまった。
    彼女を抱き上げアマノカグヤマまで運ぶと、イザナミは一人、イワナガの下へと歩いていった。