大神異見聞録・本文

神代の章・第弐話「神樹イワナガ」

  • 次の朝、イザナギは眉間に皺をよせ考え込んでいた。
    「うーん…大きくて…たくさん人が住めるくらいの土地が必要だなぁ…。ナミ、君はどんな国を造りたい?」
    「くに?とち?」
    「ええと…つまり、あのぷかぷか浮いているものを固めて、基礎となる地盤を作るんだ。
    人が住むためにはここ、タカマガハラのように安定した土地が必要だからね。
    土地が安定して肥沃な大地になれば人は繁栄して国ができる。それが僕たちの役目なんだよ」
    イザナミは分かったような、分からないような。
    イザナギの言葉を一句一句繰り返し、噛みしめていた。
    「わたし、いっぱいいっぱいつくりたい」
    言いながらイザナミはイザナギの額に自分の額を押し付けた。
    彼女が思い描いた世界が映像となってイザナギの脳裏にひらめいた。
    それはまるで宝箱に納められていた大切な宝石たちが一気に飛び出したような、そんな開放感だった。
    広大な大地に緑の絨毯が広がり芳しい花々が咲き乱れ、翼を持ち空を翔るもの、
    四本の脚を持って大地を駆けるもの。
    雄々しく吼え、生命の喜びを謳歌している。
    水晶色をした湖、翡翠色の大樹、瑠璃色の鳥、琥珀色の獅子。
    あまたの生命が大地に満ち溢れ空には穏やかな光源がかかり世界をあまねく照らしている。
    想像もしていなかった色彩に彩られた世界に、イザナギはしばし言葉を失った。
    自分にはこんな世界、想像もできなかった。
    言葉こそ自分より不自由に感じるこの女神は、自分にない素晴らしい想像力と可能性に溢れている。
    「…すごい…すごいよ、ナミ!」
    頬を紅潮させ、興奮して喜ぶイザナギに、イザナミには少し驚いたが、つられて満面の笑みを浮かべる。
    「僕たちのタカマガハラも今はこんな状態だけど…きっと、こんな世界にしていけるよ…なんて美しい世界なんだ…」
    まだ興奮さめやらないイザナギの手にふと光が弾けた。
    柔らかな光は、イザナギの手の内で淡い光を湛え、やがてそれはある形を作り出した。
    「これは…」
    呆然とするイザナギに、イザナミの白魚のような繊手がすっと伸びる。
    「なえ。アメノミナカヌシノカミのいのりがこめられた、せかいのちゅうしんのなえ」
    「…なるほど、尊神の…」
    イザナギの脳裏にアメノミナカヌシノカミから与えられた膨大な情報の中から、苗に関する情報が閃く。
    この苗は世界の中心になりうる大樹の苗。
    神秘の光に包まれた大樹はすべての生命に祝福と恩恵を与え、この世界の基盤となるだろう。
    「…よし、この苗を埋めて育てよう。君の想いを、この世界に具現化させよう!」
    イザナギはイザナミの手を引き、タカマガハラの中心、霊峰アマノカグヤマの麓へと歩み始めた。
    まだ大地には植物も少なく、小さな生物しかいない今のタカマガハラでは2人の邪魔をするものなど何もなかった。
    天高くそびえる霊峰アマノカグヤマは頂上からは、金でも銀でもない光の雫がひらひらと舞い降りていた。
    「…なんだろう、山が、輝いている。あれは、雪…かな?
    …変だな、冷たくない。一面銀世界なのに、そんなに寒くない」
    「それはアマノカグヤマが私たちのために集めてくれていた尊神の光」
    「えっ」
    不思議そうなイザナギに答えたのはイザナミだった。
    「あれは雪でも、霧氷でもなく光の霧。原初の愛を宿した、このタカマガハラの唯一の光」
    あのたどたどしい言葉ではなく、イザナギのように、まるで誰かに教えられたかのように淀みなく答える。
    「ナミ、君は…」
    「…」
    「ナミ?」
    呆けていたイザナミがキョトンと目を丸くする。
    「ナギ、どうしたの?」
    「えっ…だって今きみが…」
    「?」
    まるで憑き物が落ちたかのようにあどけない瞳がイザナギを見つめる。
    気のせいだったのか、それとも自分が知らない何かをイザナミだけが知っているのか…。
    いずれ追々分かってくるだろう。
    彼女とはまだ出合ったばかりの、初めての世界なのだから。
    「よし、じゃあここに埋めようか」
    「ここに、なえ、うえる」
    「うん。僕と君と2人で埋めるんだ」
    「…なまえ」
    「え?」
    「このなえ。なまえ、ないの?」
    「そうだね、尊神からも『神樹の苗』としか言われてないなぁ」 「…イワナガ」
    「ん?」
    「このこのなまえ。イワナガ」
    「イワナガ…【永久に謳う命】という意味だね…君には驚かされっぱなしだよ、ナミ」
    微笑まれ、褒められたのだと分かり、ナミはポッと頬を染め恥ずかしそうにはにかだ。
    2人は自らの両手で土を掘り、近くの湧き水を汲んでは苗に与えた。
    「美しい世界になりますように。風を纏い、土と水を愛で、永久の愛に包まれますように。」
    「ゆたかなせかいになりますように。かぜをまとい、つちとみずをめで、とわのあいにつつまれますように。」
    強風が吹けば身を呈して苗を守り、雨が降れば土崩れが起きないように片時も苗の傍を離れず見守った。

    そして、一年が過ぎようとしていた。

    今日で何日目になるだろう。
    来る日も来る日も、イザナギとイザナミは苗の世話に勤しんでいた。
    お互いをナギ、ナミと呼び合うようになり、共に世界創造を担う者同士としても心通わせ、絆も深め合っていた。
    イザナギは行動力と体力に溢れ、何をするにも率先して自分から行動していた。
    そんなイザナギを動物たちは慕い、彼の傍にはいつしか動物たちの輪ができていた。
    一方イザナミは行動力はイザナギに劣るものの、想像力が豊かで控えめな、穏やかな女性だった。
    そんなイザナミは植物たちと心を通わせあい、彼女が話しかけると植物たちは嬉しそうにその身を震わせるのだった。
    だが、肝心の神樹の苗は一向に芽を出さず、ただ時間だけが過ぎていった。
    「…なえ、まだでてこない」
    「うん…どうしてだろう…やっぱり神樹の苗というからにはそれなりに時間がかかるのかな…
    でもイワナガが根付かないと、いつまで経っても国造りができない…何が…何が足りないんだ?」
    がっくりと肩を落とし、二人は苗の横に座り込んでしまった。
    苗が植えられた場所は土が盛られ盛り上がっている。
    その部分をイザナミは愛おしそうに撫でた。
    どうして苗は芽を出さないのだろう?
    もしかして、土の中で死んでしまっているのではないだろうか?
    冷たい土の中で死に絶えている苗を想像し、イザナミはどうしようもない不安に駆られた。
    「う…あ…」
    目頭が急に熱くなり、黒曜石の瞳に涙が浮かぶ。
    その大粒の涙が苗の上に落ち、小さく弾けた。


    『………』


    「…!」
    イザナミの耳に、否、頭に直接声が響いた。
    それはとても聞き取りにくく、一瞬空耳のようにも感じた。


    『…て…詩…って…』


    「…ナギ、なえが…」
    「え?何?」
    イザナギを振り返るが、彼には聞えていないらしい。
    「なえのこえが、きこえる…」
    「えっ?」


    『…謳って…謳って…』


    「…うたってっていってる…」
    「…僕には聞えないけど…でも、謳うって…」
    声も聞えないイザナギはただ目を白黒させるばかりだ。
    尊神ーアメノミナカヌシノカミの詩は聞いたが、自分たちで謳うのは初めてだ。
    イザナミは目を閉じ、声に耳を傾けた。


    『謳って…貴女の心に響いた旋律を…
    謳って…貴女の深淵にある、ただ一つの祷りを』


    と、苗が光はじめた。
    「えっ」
    「あ…」
    その光は儚く、吹けばたちどころにもきえてしまいそうな淡い光だったが、
    イザナミの心の琴線を大きく揺さぶった。
    「あ…あ、あぁあ…」
    「ナミ?」

    「大いなる生命の光よ…!」

    イザナミが口にしたのはかつて尊神から与えられた、神世の奇跡を起こす詩だ。
    詩は風に乗り、光になって周囲を眩く照らし始めた。

    《それはまるで太陽のような 波のような
    尊神よ!どうか私に 詩に力を!
    詩が聴こえる それはとても優しい詩
    詩が聴こえる それは私の心の奥底から溢れてくる詩
    この詩を謳おう そしてこの樹を育てよう
    その根は繋がり 大いなる生命の礎となる
    共に謳おう 今この胸に大いなる原初の愛を抱いて》

    イザナミの澄んだ歌声が満ちる。
    その歌声に呼応して、タカマガハラに宿った生命たちも、その生命力を震わせ謳う。
    それは波となり、タカマガハラそのものが詩になっていく。
    それを呆然としながら見つめていたイザナギの手を、そっとイザナミが握る。
    触れた手から、イザナギの、タカマガハラの想いが流れ込んでくる。
    「貴方も謳って 聞かせて 貴方の生命の歌声を」
    謳い方なんて分からなかった。
    だが、聞いているうちに、イザナギの脳裏に詩が思い浮かんできた。
    それをそっと口にしてみる。

    《詩が聴こえる それはとても雄々しい詩
    詩が聴こえてくる それは世界中の生命が紡ぐ恵みの詩
    この詩を謳おう そして生命を育もう
      その螺旋はうねり 大いなる生命の礎となる
    共に謳おう 今この胸に大いなる原初の愛を抱いて》
    その詩の波動は光となり、苗の上に降り注ぐ。
    七色の光に彩られろ、神々しく輝く苗がゆっくりと成長しはじめる。
    芽が息吹き伸び、芽から木へ、木から大樹へとみるみる成長していく。

    《腕伸ばし天の恵みを受け いざ芽吹けや希望の大樹
    憂いなき楽園の 輝かしい碧緑の楽園を共に夢見よう》

    《幽けき深淵の闇の底より 降り注ぐ光の雪浴びて
    この身に宿るすべての愛 すべての希望よ 今こそ詩になれ!》

    二神の歌声に合わせて動物たちが、植物たちがそれぞれ声なき声を上げて謳う。
    それは大気を震わせ、振動し、波になり、光に溶ける。
    光が神樹に降り注ぎ、神樹は枝を伸ばし幹が膨らみ、アマノカグヤマの頂上まで伸び、
    その輝きでタカマガハラを包み込む。
    きらきらと眩い光がタカマガハラに溢れ、すべての生命が歓喜した。
    その声を聞き、イザナギとイザナミは成功したのだと顔を綻ばせる。
    「ナギ」
    「うん、ナミ。やったんだよ、僕たちは…!」
    「うん…!きれいね…すてきね!」
    2人は抱き合い、そっと唇を重ねた。